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「欲のために戒めを守る」ことを再びしないように


文/大陸大法弟子

(明慧日本)きょう明慧ネットで『釈迦牟尼仏』の物語を読みました 。仏陀の従兄弟・難陀と美しい妻はとても仲睦まじかったのです。ある日、彼が部屋の中で妻に化粧をしてあげていた時、仏陀が外で乞食をしていることを耳にして、外に仏陀を見に行き、尊敬するようになりました。なんと仏陀は彼を仏陀の宿泊所に連れて行き、剃師に彼の頭の毛を剃らせました。難陀は仏陀に逆らいませんでしたが、一方で苛立って自分の妻を懐かしんでいました。

  仏陀は彼の気持ちを知り、彼を連れてある山の上に行きました。そこには一匹の黒くて醜い年老いたサルがいました。仏陀は尋ねました。「あなたの妻はこのサルに比べて、どうですか」 難陀は言いました。「私の妻の美しさはこのサルの醜さとは全く比べものになりません」 仏陀は更に彼を連れて「三十三の天」に行きました。天子と天女が一緒に楽しんでいますが、宮殿の中には、天女だけがいて天子が見あたりません。天女は人間とは全く違って肌が白くて純潔で比類ない美しさです。難陀は仏陀に聞きました。「どうしてここには天子がいないのですか?」 仏陀は言いました。「自分で彼女たちに聞いて下さい」 難陀は走って行き、天女に聞きました。すると「世に仏陀の従兄弟、難陀がいて、仏陀は彼を導いて出家させました。出家した功徳のため、死後はこの天に昇り、ここの天子になります」 難陀は喜んで帰って仏陀に答えました。

  仏陀は尋ねました。「あなたの妻はここの天女に比べてどうですか」 難陀は「まさに目の不自由なサルと私の妻を比べることと同じで、美しさと醜さは比べようがありません」と答えました。仏陀は依然として彼を連れて下りてきました。難陀は天上の楽しみと天女の美しさをみて、戒律を守って修行し、世の中の美色と栄華を思わなくなりました。難陀は欲のために戒律を守りましたので、阿難は詩を作って彼を酷評しました。

  何日か過ぎて、仏陀は更に難陀を連れて地獄にいきました。大きな鉄鍋の中の湯で、人を煮ていましたが、その中の一つの鍋にはお湯が沸いているのに、人がいないのです。難陀はおかしいと思って地獄の兵卒に聞くと、地獄の兵卒は「世に仏陀の従兄弟・難陀がいて、欲のために戒律を守ったので、死んだ後に昇天はしましたが、天の福はすでに終わったので、この地獄に落ちて苦しい目に遭うのです」 難陀は怖くて仏陀に助けを求めました。

  仏陀は「あなたは天の福のために勤めて修行をして下さい」と言いました。難陀は「今、私はやっと分かりました。生死が終わらなければ、やはり平安ではありません! 天には楽しみがありますが、結局は天の福が無くなって落ちる日もあるのです。三界での零落、地獄での痛ましさに関して、戦々恐々としてしまいます! 今私は天に昇りたくはありません。ただ私を生死の苦しい境遇から慈悲に済度をして頂きたいのです」 そこで、仏陀は彼のために『四諦妙法』を説き、7日後、彼は阿羅漢になりました。

  私はこのストーリを読んで、喜び、またぞっとしました。よく考えてみると、自分にまだ「欲のために戒律を守る」時間はどのくらいあるのでしょうか!?

  例えば、自分の顔色が時にあまり良くない時、同修が私にもっと栄養や睡眠を取った方が良いとアドバイスをしたら、自分の心は動じてしまいます。ある同修が煉功を続けていると、皮膚がなめらかに美しくなったことを聞いて、自分は続けて煉功するようになります。煉功すれば確かに皮膚がなめらかになり、身体も変わります。しかし「美容」と健康」のために煉功することは、「欲のために戒律を守る」ことになるのではないでしょうか?

  また、修煉している子供の学校の成績が下がると、このように注意します。「内に向かって探して下さい。修煉を精進していないのではありませんか?」 修煉をまるで成績を高める手段であるかのように見ており、成績が修煉を測る基準のようです。大法修煉は確かに智慧を開くことが出来ますが、常人の中の何かのために智慧を開くのではありません。まだ成績の善し悪しを気にかけており、これは「欲のために戒律を守る」ことではありませんか?

  例えば、発正念の時、「迫害を避け、自己を保護する」心を取り除かないのであれば、邪悪を排除し純粋に衆生を救うためではなく、多かれ少なかれ「自己保護」の要素を持ちます。自己保護のために発した正念は、「欲のために戒律を守る」ものではありませんか?

  また、真相を伝えた時、徹底的に「無私無我」の清浄な仏陀の心を持たず、たまに小さな「私」が出てきて、「任務を完成」し「円満成就する」ために人を助けていました。これは「欲のために戒律を守る」のではありませんか?

  徹底的に常人のものを放下できず、片手で常人のものを掴んで放さず、片手では仏陀を掴んで放しません。常人のものを無条件で放下することは難しいのです。修煉は苦労をしなければならないことだと知っていますが、常人の中で快適でないことがあるとすぐ外へ向けて、他人のせいにします。師父の説かれた法は当然信じてはいますが、千百年来培ってきた人の道理を、すぐに断ち切る勇気がありません。修煉の中で得た福があるために自惚れ、常人の中のものを失うと気分は落ち込みます。この根本的な執着を取り除かなければ、果たして真修と言えるのでしょうか?

  その年、難陀は因果をすっかり悟って、7日後に、阿羅漢になりました。私達は大法を修煉しているので、更に向上が速いのです。最後の修煉の時間の中で、同修たちと一緒に早く大法に同化し、最後の人心を取り除いて徹底的に人を超越し、本当に大法の中で円満成就して神通を現し、悪を一掃し、衆生を救い済度することを望みます。

  2009年5月16日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/5/12/200719.html