人間の考えを捨て、神のように考えましょう
(明慧日本)今日同修の書いた『私たちはどうして神のようになれないのか』という文章を読みました。最近、私もずっとこの問題を考えています。
師父は「法を正す中での情況は大法によって司られており、大法が衆生を救い済度することの要求にしたがって変化しているのです。実はこのとき、大法弟子が神の事を行うのはどうしても必要なことであり、なぜならば、大法弟子の個人修煉は既に第一義の問題ではなく、法を正す中で衆生を救い済度し、大穹を新たに組み立てることこそが目的だからです。法を正し、衆生を救い済度することを必ず行わなければならないため、この環境による妨害を必ず破り、法を実証しなければなりません。」と説法されました。(『各地説法七』「米国西部国際法会での説法」)
数年前、邪党は第十六回全国代表大会を開きました。その時、彼等は自分たちが把握している大法弟子に対して、一人一人意思表示をさせようと企みました。610弁公室が公に、法輪功に対する信仰を放棄しなければ、直接労働教養をさせると脅した会社もありました。邪悪の中心部に置かれていたあの数日間は空間場全体に暗い波がもうもうとしていているように感じ、その圧力はとても大きかったのです。まわりの同修の中には、強制的に洗脳班に送られた同修や強制的に会社を辞めさせられ、家を離れた同修もいました。私もこれは厳しい試練であると感じました。私は法を多く勉強し、自分の正念をとても強くさせました。同時に「だめだったら、会社をやめる」という考えも持ちました。また「もし会社を辞めたとしても、大法を実証しなければならない。逃げて終わりにすることはできない」と思い、真相を伝える手紙を何通か書いて、大法弟子に対する邪悪の迫害を暴こうと思いました。しかし、当時私が感じたのは悲壮な神聖でした。私は師父の「発正念」「全面的に旧勢力の按配を否定する」などの説法を何回も繰り返して勉強しました。私は如何にして旧勢力の按排を否定するか、しかも全面的に否定するか、正々堂々とした一人の大法弟子として、神の道を歩んでいる大法の徒として、何故世の人々に見えるのは迫害されるイメージなのかと考えました。ここまで考え及ぶと、口からついに「あれらの大法弟子を迫害しようとする一念を無くそう」という一言が出てきました。この一言が出ると、体は天の頂に達し、空間場全体がすぐ清く、明るくなりました。私はこの迫害はすでに存在しなくなり、この関もなくなったのだと分かりました。(関とは乗り越え難いから、関と言うのです)
翌日、邪党書記と院長は私を呼び出して、話をしました。私は普段から彼らに話をしようとしても、チャンスがなかったので、これは絶好の機会だと思い、すばやく彼らのところに行きました。彼らに会うとすぐ、「私が先に二言言います。一人の行動が正しければ、彼の考えも正しいのです。一人の行動が正しくなければ、彼の考えも正しくありません」と言いました。私は彼らに話の基準を決めてあげ、この場は大法弟子がコントロールすべきだと思いました。私の話に彼らも同意しました。そうすれば、至る所で他人のために考え、真に修める大法弟子をどこへ転向させるのでしょうか?彼らもその話が言い辛くなりました。話の全過程で、彼らの思想は私にコントロールされているようで、私が何か言いたければ、彼らも何をいい、また一生懸命に「私たちはあなたを差別してない」と示しました。私は「あなた方が大法弟子を迫害することに加担しなければ、自分たちに美しい未来をもたらすことになります」と伝えました。その言葉が出てから、先程のことを振りかえってみれば、私もとても不思議に感じました。神の考えで人間の考えをコントロールすることは本当に容易いと感じました。
衆生を救い済度する中で、大法弟子が神として事を行うことこそ、旧勢力の按排を否定し、大法を実証することです。邪悪な迫害を目の前にして、拷問が自分の身に降りかかった時、私たちは師父に対して、大法に対して確固たる信念を持つだけでなく、迫害の中でも屈せず、さらに大法の威厳と大法弟子の威徳を現さなければなりません。大法の作り上げた正法正覚の生命に対して、敢えて手を出せるものがいるのでしょうか?また誰が手を出せるのでしょうか。
2009年5月16日
(中国語:http://search.minghui.org/mh/articles/2009/5/7/200365.html)
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