日本明慧
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名・利・情を放棄し、法を正す時期の相応しい大法弟子になる


文/河南省大法弟子

(明慧日本)私たちの家族は幸いにも1995年に全員が法輪功の修煉を始め、あっという間に10年が過ぎました。今、自分たちの修煉の道を振り返ってみると、辛い時もあり、楽しいときもありました。よくわからない状態から徐々に分かり始め、今は成熟の段階に入ったともいえます。転んだり、立ち上がったりを繰り返してきましたたが、何より偉大な師父の慈悲ある指導の下に、転んだところから立ち上がることができ、今日まで歩むことができました。

  「佛恩の恵み」は心の中では分かっていますが、書くとなると、このテーマは私には大き過ぎるのです。ここで自分の修煉の中でどうやって名・利・情の執着心を捨てることができたかを書いて、皆さんと交流したいと思います。

  私は就職したばかりの若い弟子です。小さい時から自分には欲望が少なく、名誉、利益をあまり追求しないタイプで、ほかの人が権利や利益のために命をかけて争っているのを見るたびに、自分は将来大官僚にもなりたくないし、大金持ちにもなりたくない、静かに普通の人の生活をしたいと思っていました。しかし、社会に出たら自分の中に静かに暮らしたいという心の下に、隠れていた執着心が徐々に現れてきました。

  私は職場で人事の仕事を担当しています。この部門は私と主任の2人しかいません。人事課は皆から羨ましがられるはとても良い部門です。主任は退職の年齢が近づいていました。自然に、私はみんなに将来この人事課の主任になると見られていました。だから、同僚たちは私にみんな遠慮して、笑顔で仲良く対応してくれる、私を自分よりも上のように見ていました。しかし、突然この人事課に新たに新人が入ってきたのです。その人は年齢も私と同じぐらいで、上の偉い人の家族だと言われていました。同僚たちの間ではすぐに、この新人が人事課長を狙って入ったという噂が広がりました。私と仲の良い同僚も「この人に気をつけてください」と注意を呼びかけました。

 このように言われてから、徐々に私の心も動き始めたのです。家に帰って両親に最近のことを話してみました。其の時、涙が止まらなかったのです。まるで自分に大きな不平不満があったようでした。両親は修煉者なので私に法理を話してくれました。理屈は分かっているのですが自分の心の中で放下できませんでした。放下できなければその心は時々現れて、他人が私の前でもっとこのことを話題にするのです。後になると私は別の課に移動させられるという噂まで飛び回るようになりました。

  私の我慢はもう限界に達しました。しかし、こうした刺激と心の不平不満感に突然私は目覚めたのです。私は静かに、内に向かって探し始めました。自分はなぜ我慢できないのか? 何故泣くのか? 何故不平不満に感じるのか? こんなに強い名利の心があるのに、自分が名利を大切にしていないと思い込んでいたのです。今まで名利の心がないように思い込んだのはこの隠れていた名利の心が暴露されるチャンスがなかったからに違いありません。今回の事で、私には名利の心があるだけではなく、それも非常に強いということが分かったのです。法を正す時期の大法弟子なのになぜ常人の名利のために心が動いてしまったのでしょうか? 自分の本当の使命を忘れてしまっていたのです。本当に恥ずかしいです! 大法弟子として私はなぜ人事部門で働くようになったのでしょうか? それは、人事課はたくさんの人と接触できるので、師父が人を救うために私をこのポストにつけられたのです。しかし私はそれを悟りませんでした。迷っていて、ぎりぎり本当に危ないところでした。

  自分にはこんなに大きな名利心があることを、今まで知らなかったのです。そのため旧勢力は私のこの隙を利用して、私にたくさんの仕事を押し付け、毎日いくら働いても終わらないほど仕事をさせていたのです。法を学習するときにも心を鎮めて法を学習することができませんでした。頭は職場の仕事のことでいっぱいで、毎日疲れ果てていました。それが分かってから、私は毎日発正念をして、旧勢力の自分に関する強制的なコントロールを完全に否定したのです。

  私は自分のやるべき仕事をきちんとやり、私は決して常人のために働くことが目的でこの世に来た訳ではなく、私は人を救うために来たのです。それから私は新しい同僚に対する警戒心をなくしました。自分が今まで担当していた仕事の一部を手放して新人の同僚に任せました。仕事で新人の同僚を手伝い、友だちのように優しく教えて、自分はできるだけ真相を伝え、法を実証する時間を作ったのです。こうして悪いことを良いことにチェンジすることができました。

  人は情のために生きています。若輩の弟子として、私はかつてこの情のために頭を愚かにして情に溺れ、なかなか脱出できなかったのです。私は常人の安逸、贅沢な生活を望んで常人の幸せを追求していました。いつも自分は感情の面では何か足りないところがあり、他人にいつも「なんでもできるのね!」と褒められていたのです。けれども自分にはどうして恋の相手が見つからないのか? まるで自分の人生には結婚などない運命のように思っていました。恋をしているほかのカップルを見るたびに、心の中は不平不満でいっぱいでした。数日前、妹の結婚式に参列したときに、妹と弟がみんな大人になって、自分の家庭を築いていくのを見て、彼らの幸せのおかげで久しぶりに自分の心は安らかになったと感じました。今までの嫉妬心、不平不満など跡形もなく消えました。その瞬間、自分の心は明るく広くなったのです。はっきりと自分は常人社会の一員ではないことに気づきました。私はここから離れる命なのです。常人社会のいわゆる美しい幸せは私を誘惑できません。

  修煉は何よりも厳粛です。法の我々に対する要求もますます高くなっています。我々は法を正す進展に遅れないように三つのことを全部やって、正念で人の念を入れ替え、情の中に転落して自分と他人に被害を与えてはいけません。自分の使命を考え、衆生のことを考えるべきです。常人社会のなかに欲しくてたまらない価値があるものがあるでしょうか? 同修たちよ、最後に残された貴重な時間を効率よく利用しましょう。師父が我々を選んでくださったのですから、師父を失望させないように頑張りましょう。

  はじめの文章なので、慈悲を持って適切ではないところは訂正してお読みください。

  2009年5月22日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/5/17/201061.html