『最後になればなるほど、精進すべき』の経文を学んだ感想
(明慧日本)師父はかつて経文を発表され、「最後になればなるほど、精進すべき」であると私達に言われました。私は個人の次元でこのように悟りました。最後になればなるほど難しく、道も狭くなって歩きにくくなり、ちょっとずれても転びやすくなります。最近、同修に「病業」の症状が現れ、しかも長期に続きました。同修達はこの問題について一緒に交流しました。私はここで個人の次元で悟ったことを話したいと思います。
「病業」の現れは必ず漏れがあったからです。深いところに隠れている旧宇宙の観念に気付かず、気付いたとしてもそれは花崗岩のように堅くて一挙には捨てられません。修煉は厳粛なもので、新宇宙には基準があるのです。ですから厳粛に自分を律しなければ、関を乗り越える時に転びやすいのです。私の例を挙げましょう。私は気立てが良くありません。「忍」のことは分かっていますが、時にはトラブルに遭ったときに我慢ができず、相手と言い争ったりします。争ったあともこのことを重視せず、内に向って探しませんでした。最近トラブルがあり、これは私に対する試練なのだと分かりましたが、耐える事ができませんでした。
その結果「病業」の症状が現れ、腕が痛くなりました。しかもこの期間中、問題にあったら焦りが生じ、穏やかではありませんでした。甚だしきにはかんしゃくまで起こしました。その結果、腕は日増しに痛くなりました。当然、問題がどこにあるのかにも気付かず、自分では(3つのことをちゃんとやっているのに)何故だろうと思いました。後で、学法グループの同修が「誰々がトラブルの中で我慢をしないで、かんしゃくを起こしたため『病業』の症状が現れた」と話しました。
この言葉で私は目が覚めました。まさに師父がおっしゃった通りです。「少しばかりの魔難や何かのささいなことも乗り越えることができず、最後まで積み重なると、大きな関になります。命を放下しないと乗り越えられない関になりますが、どうしたらよいのでしょうか? 甚だしきにいたってはあなたが命を放下しても乗り越えられない関となり、旧勢力はあなたを見逃しませんし、あなたの正念も十分ではありません」(『2005年サンフランシスコでの説法』)
今までこんなに長年修煉して来ましたが、自分の根本的な執着をまだ完全に捨て切れていないため、旧勢力に隙に乗じられました。3つのことをどんなに良く行なっていても、心性を向上させず、トラブルに遭った時、常人のように対処したなら「病業」の症状が現れないはずがないのです。特に最後になって、私達の道は非常に狭くなり、思想が法の中になければ転びやすいです。宇宙には基準があるので、心が正しくなければいけません。一部の同修には個別の情況があるので、私の状況とは違います。以上は個人の悟りです。
2009年5月22日
(中国語:http://search.minghui.org/mh/articles/2009/5/20/201211.html)
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