日本明慧
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内に向かって探すことを強化し、旧勢力に隙に乗じさせない


文/河南省の大法弟子 真心

(明慧日本)私が住んでいる都市の近くの農村地区に、ある同修がいます。彼の具体的な情況はあまり知りませんが、聞くところによれば、彼の天目は座禅の時にその他の空間、神や佛の世界がはっきりと見えるそうです。この前、彼がいる地区の同修の間に論争が起きました。

 論争の原因は主に2つあります。1つは、この天目が開いた同修は功能を使って、風水や占いをしていました。彼自身の話によれば、大法を修煉する前に、すでに風水や占いをしていて、それは彼の職業でした。彼はこのやり方で真相を伝えています。彼の占いは結構当たるので、彼を信用する人も多く、彼自身も自分をちゃんとコントロールできると思っています。実際の情況から見れば、彼は確かに多くの人を三退させて、彼の紹介で大法の修煉を始めた人もいます。これに対して、彼を支持する同修もいれば、違った意見を持つ同修もいます。もう一つは、この同修は、自分が多くのその他の空間の真実の体現が見えて、常人の空間で見えない多くの法理をも見えると思っています。たくさんの常人、一部の修煉者も含めて彼を尊敬しているので、彼はたくさんの事をこの人たちに言い聞かせて、また文章を書いて、一部の人に回覧させていました。一部の同修はこのような情況はかなり良くないと思っていました。

 この2つの問題で、彼の自宅へ彼を批判しに行く一部の同修がいて、また彼を守る同修もいました。彼はこのような批判を受け入れないため、双方は対立まで発展していきました。次第に言葉が激化し、彼を魔だと言って、同修を妨害し、法を破壊していると言う同修もいました。彼は、自分を批判した人に対して、本当の修煉者ではなく、次元が低くて、嫉妬心が強いと言い返しました。双方ともかなり聞き苦しい言葉を使っていました。これらの過激な言動は甚だしきに至っては、当地の同修の真相を伝えることにまで影響を及ぼした。資料を作っている同修もこの事に参与したため、警察に目をつけられて、場所が見つかりそうになりましたが、直ちに移ったので損失がなくて済んだのです。

 問題が激化してから、双方ともある程度自分が正しくないと気づき、それから双方とも、自分の態度と過激な言葉に対して、相手に謝って、修煉者としてこのような言動はあるべきでないと認識できました。天目の開いた同修も自分のやり方が適当かどうかを考えて直すと表しました。双方の意見はまだ一致していませんが、常人のような論争がなくなりました。

 以上の情況は、この都会に出てきた同修との交流のときに聞きました。彼からこの事を聞いて、自分が以前経験したある事を思い出しました。私は1995年から大法を修煉し始めたので、当時私がいる地区で法を得た人は比較的に遅く、私が修煉を始めた頃、当市にはまた百人あまりしかいませんでした。1996、1997年に急速に学習者増え始めたので、私と同じ時期に法を得た人はほぼ現地の責任者と輔導員になりました。当時の洪法、煉功、功法を教えていたのもほとんど先に法を得た私達でした。その間、いくつかの問題に気づきました。たとえば、ある輔導員は功法を教える時、尊師が教えるように教えていなくて、自分で新しい言葉を作って、「動作は腕が指先について行くように」などのよう教えていました。自分自身の動作もあまり正しくない輔導員もいました。また当時、統一した煉功の音楽テープがなかったので、自分で制作した煉功音楽が多くて、要求に達していないテープもありました。「畳扣小腹」の時間をわずか数秒間に短縮するようなことなどもありました。当時の尊師の経文に照らし合わせると、これは深刻な問題だと思いました。これらの問題と自分の見解を輔導員の会議で話せば、みんなきっと直すだろうと思っていましたが、輔導員の会議で2度も言及しましたが、私の意見は重視されませんでした。かなり焦って、これらの問題を解決しなければならないと思ったので、関係輔導員を探し当ててこの事を言いましたが、結局私の意見を聞き入れてくれませんでした。

 当時の私は本当にかなり焦りました。まさか私が間違っているのでは?と思って、家に帰って真剣に尊師の講法、経文を繰り返し何度も学び、やはり自分の認識は間違っていないと思いました。そこで、私はまた他の輔導員を探してこの事を話しました。しかし、得た結果はもっと悪く、私が言っている意味を分かってくれる人さえいませんでした。たとえば、私はある同修に録音テープに問題があると言ったら、彼は「大丈夫、あなたは入門したばかりで、煉功は最後まで堅持できないのも無理ないので、しばらくしたらよくなりますよ」と言われたので、腹を立てて、「わけが分からない、何言ってるんだ、あなたよりも先に修煉を始めたのに!」と心の中で思いました。

 ちょうどその時、尊師の経文『さらに執着を取り除く』が出て、その中のある一言に震撼させられました「心の中で何らかのことが気になっている時、それは執着心によって引き起こされたのではないですか?」私はその言葉を見て、呆然としました。その通りです、私は心の中でどうしてずっと気になっていたのでしょうか? 私は、尊師の講法を自分に照らし合わせて、繰り返し考えて、私の法に対する理解は間違っていませんが、自分が人より優れていて、自分を顕示する心を放下できておらず、法を守るという口実でその執着心を覆い隠していたことを最終的に認識できました。自分がずっと穏やかで謙虚な口ぶりで人と交流していますが、焦っている心理状態の中でやはりたくさんの執着を覆い隠していました。これらを認識できてから、必ず自分の心を放下して、真の穏やかな心理状態に達するようにする、と決心しました。

 その数日間、心の中はとても苦しかったのですが、努力してそれを克服していたら、何か変化しているのを感じました。数日後、ついに、自分が楽になったのを感じました。これらの事を本当に穏やかな心理状態で勧告、処理することができるようになったと感じました。ちょうどこの時に、煉功場に統一する煉功テープが手に入って、問題のある輔導員や、私が指摘したが聞いてくれなかった人の問題も、全部正されました。もう何も言う必要はありません。私は急に尊師の慈悲と大法の洪大さを感じ取りました。

 再び尊師の経文「再認識」を学ぶと、さらに深く理解できました。 

 町から来たある同修は私のこの体験を聞いて、深く感銘を受けました。引き続き彼らのところで起きたあの事を話し出しました。今回、彼らの所で発生した対立問題、矛盾の激化によってもたらされた妨害と損失で、肝心なのは対立問題が発生している間に、みんなが内に向かって探すこと、内に向かって修めることが足りなかったので、自分の魔性の面が作用を発揮し、同時に旧勢力に隙に乗じられて、損失をもたらしたことです。そして、彼はまたもう1つの問題を言い出しました。当時、ひたすら他人の問題を見るべきでなく、内に向かって自分を探すべきだと指摘した同修がいましたが、今は法を正す時期ですので、ひたすら内に向って探すことは個人修煉の時期の状態であって、彼は法を破壊しているので、阻止したのだと主張している同修もいました。自分を修めるために何も問わない、関わらないというやり方は、自分と彼に対して無責任な行為です。しかし、もう一方の同修は、彼ら(論争の相手を指す)は自分らだけが法の要求に基づいていて、自分らだけが最も正しいと思っていて、他人は自分らに及ばないと思っているから、彼らを刺激して、彼らの魔性を暴露したのです。彼らが本当にそれを認識ができて高まることができれば、自分は一回くらい魔になってもかまわないと主張していました。自分の出発点は他人を助けているのだと。この2つの認識に対して、一体どのように理解すべきでしょうか?

 これらの問題について、実は、私達は具体的な事に直面した時、どのように対処すべきか、どう正しく歩むべきか、どうのように旧勢力の妨害を突破するべきかの問題であると感じていました。この問題について、私の認識は、彼らの具体的な情況を置いておいて、仮に、真修出来ない同修が旧勢力に隙に乗じられたため、あるいは常人が邪悪にコントロールされて、法を破壊することをしたのなら、大法弟子として、私達はどのようにして法を守って、旧勢力の妨害を取り除くべきでしょうか? 私達はただ常人の方法で、勧告、批判して彼を阻止すれば、それは、常人の中の対立となり、甚だしきに至って鋭く対立することになります。しっかり対処できなければ、個人の執着、魔性の面が旧勢力に隙に乗じられることなり、対立を激化させてしまい、もっと大きな損失をもたらしてしまうのです。こうした結果、口先でのみ旧勢力の按排を否定することになり、実際はやはり旧勢力に隙に乗じられているのではないのでしょうか? 私達は先に修煉者の基準で自分を律すれば、自分の原因を探して、なぜ自分がこのような問題に遭遇したのか、自分自身に何か執着があるのではないのか、と自分を探すとき、相手が常人や修煉者に関わらず、表の人の面に対して温和で善良な態度で対応すべきです。善意を持って彼を忠告し、阻止すればよく、肝心なのは正念でその背後の妨害の要素を取り除くことです。こうすれば最もしっかりと旧勢力の妨害を取り除くことができます。

 この対比によって、法を正す時期にひたすら内に向って探してはいけないのではなく、法を正す時期は個人修煉の時期に比べて、内に向って探すことに対してもっと高く要求されています。個人修煉の時期に内に向かって探すのは、執着を見つけて、もっと早く向上し、個人の円満の要素が含まれていますが、法を正す時期は、真修の大法弟子にとって、尊師はすでに明確に、個人の円満はすでに問題ではないと私達に教えてくださっています。ですので、この時に内に向って探すことは、旧勢力に隙に乗じさせないため、旧勢力の妨害を取り除くためであり、さらに衆生を救い済度することができ、完全に無私な要素です。また、個人修煉の時期に内に向かって探すことを緩めたら、個人の向上が遅くなりますが、法を正す時期に内に向かって探すことを緩めたら、旧勢力に隙に乗じられて、衆生を救い済度することに対して損失をもたらします。ですから、私達はもっと厳しく自分を律して、ようやく尊師の法を正すことに遵うことができ、先史の大願を達成し、衆生の私達に対する期待に答えられるのです。

 この交流を通じて、考えがいっそう明確になったので、同修たちの参考になればと思います。正しくない所があればご指摘ください。

 2009年5月23日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/4/7/198516.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2009/4/29/106919.html