ドイツ・ベルリン:「公での脱党声明を9年待った」(二)
(明慧日本)
友人は刑罰を下され、1人で国外に脱出
目の前の留置場での難関は、病気にかかったため一時避けることができたが、さらに深刻な事態が待っていた。2001年3月、法廷は張明さんに「社会主義転覆罪」という罪名の召喚状を出した。
「私がもし召喚状に書かれたままに行ったら、帰って来ることはできないと分かっていました。したがって、私は吉林省の友人のところへ行き、友人の助けのもとでドイツに密航したのです」 張明さんは、「その他の5人の同僚はのちにいずれも5〜7年の重刑を下され、その中の1人は刑務所の中で死亡しました。どうして死亡したのかは誰も知らず、ただ彼がずっと不服で上訴し続けていたことだけを知っており、おそらくそのために苦しめられて死に至ったのだと私たちは推測しました。その他の人は刑期満了で釈放されましたが、元の勤務先に戻ることはできず、働き口がなくなりました」と言った。当初、張明さんが重病のため服役中の一時出所を保障した兄さえ免れることができず、3年の刑を言い渡された。
2001年3月に裁判所の召喚状を受け取り、2002年5月にドイツに着くまで、彼は14カ月も流浪して住む所を失った。ドイツへ行く途中に、彼は密航団体と一緒に列車に乗ったり、自動車に乗ったり、歩いたりして、ロシアと東ヨーロッパを経由して、最後にハンブルクに到着した。
弾圧されていることで法輪功に関心を持った
「私は法輪功に対して関心を持ったことは一度もなく、法輪功への弾圧が始まって、すべてのチャンネルが法輪功のことを報道しているので、好奇心から、いったい法輪功のどこが中国共産党にこのように大掛かりな弾圧をさせたのかを知りたかったのです」 張明さんは当時、会社で運送大隊の隊長を担当しており、部下には10数人の運転士がいた。彼は、「上司が私の部下の1人の運転士を呼んで話したことから、私はやっと彼が法輪功修煉者であることを知りました。また私の近所の人が解雇されたことから、私は初めて彼女が法輪功修煉者であることを知ったのです」と言った。
1999年に弾圧が始まってからおよそ2週間後、張明さんは彼の部下のこの運転士を探して、『転法輪』を借りて読んでみることにした。「はじめ、彼はどうしても貸そうとしませんでした。それは当時すべての人は法輪功の書籍を上に差し出さなければならず、さもなければ懲罰を受けたからです。彼は他の人に本がまだあることを知られたくなかったのです。私は何度も決して言わないと約束して、彼はやっと2時間ばかり彼の所で読むことを許し、決して本を持ち出すことを許しませんでした」 張明さんは、「私は最初あら探しをするつもりでした。その中に国家の利益に危害を及ぼすような内容はないかを見つけたかったのです。私は大まかに2時間ほど読んで、二つの印象が残りました。一つは真・善・忍で、もう一つは争わず、殴られても返さず、罵られてもやり返さないことでした。私はとても良いことだと思いました。有害なものは一つも見当たらなかったのです」と思い返した。
かつて彼の下で働いていた法輪功修煉者について言及した時、張明さんは、「彼は人がとても良く、仕事もとても真面目でした」と思わず口にした。張明さんは、「運送に従事する人なら誰でも知っていることですが、1台の大型トラックが目的地まで行く間、もし1台の車が故障したら、後ろの車は必ず止めて修理を手伝うのですが、しかし、前の車は後ろの情況が見えないのでそのまま行ってしまいます。そんな中で一番後ろの車両は最も大変になります。それは前の車両のいずれかが故障したら、すべて手伝わなければならず、しかし自分の車両を手伝ってくれる人は誰もいないからです。こうした中でこの法輪功修煉者はいつも最後に車を出していたのです。冬の東北はとても寒く、車を修理する時に手を伸ばすことさえ困難な中で、手伝う人があるとないのとでは大きく違います。彼はいつも一番困難な事を自分から引き受けていました」と、一つの例を挙げた。
中国では、中国共産党が情報を封鎖しているため、張明さんが法輪功の真相を知るルートは限られていた。しかし、彼は政府メディアの報道の中で、法輪功は決して政府の言うようなものでないという一つの結論を得た。「中央テレビ局は、法輪功の中で教授、学生、教師、幹部、労働者、軍人等がいることに言及しましたが、しかし、ごろつきがいないことは明らかです。これまで犯罪グループが検挙されても、彼らの中に法輪功修煉者がいるという報道は一つもありません。どうしてそれらの悪い人は法輪功を修煉しないのですか? またどうして社会の階層の高い人が修煉するのですか? 彼らは善し悪しを見分けることができないのでしょうか?」
数十年の変転の過程
2000年、張明さんは中国共産党が非常に大きな虚言によって中国全土の10数億の人民を騙していると認識した時、彼は精神上すでに中国共産党を離脱していた。張明さんは、「私は以前、中国共産党に加入したことがありましたが、2000年のあの事件が起きてから、誰かが私に党員かどうかと聞くと、私はいつもそうではないと言っていました」と言った。
張明さんは50年代の生まれで、中国共産党に対して希望を抱く若者だったときから、公然と脱党するまでに、彼は長い思想の変転の過程を歩んできた。
1973年、文化大革命の時に、張明さんは「積極的に向上する」中学生だった。ある日、学校の中で批評と闘争大会が開かれ、張明さんは、闘争される人の胸先につける札を塗らされたが、その札の後ろにちょうど毛沢東の肖像があったことに気づかなかった。正面がペケに塗られたその背面は毛沢東の肖像だった。その当時は気が狂ったような時代で、彼は「反革命現行犯」として7年の刑を言い渡され、天津市の第三労働教養所に拘禁された。その中の生活は非常に苦しく、自由がないことは言うまでもなく、80度の高温でレンガを焼くかまどに入らせたり、人の腕を反対に吊るして殴るような迫害を加えたりした。1978年に名誉回復する時まで、彼はすでにそこで5年を過ごした。
張明さんは、「その時、多くの冤罪がありました。たとえば南開大学の先生は、うっかりして毛沢東の石膏の頭像を転がしたため、反革命者とみなされ、名誉回復した時、それらの大右派がいくつかの経済の補償を得たことを除いては、私たちのような小さな冤罪は弁償されませんでした」と言った。
しかしこれらのことは、張明さんが中国共産党をはっきりと見分けることの始まりであった。「釈放された時、彼らはこの勘定は『四人組』に当てるようにといいました。私たちは言われた通りにして、この党はそれでもまだ良いもので、誤っていても立て直すことができると思っていました」
張明さんが当時の考えに言及する時、必ず1978年の環境について言わないわけにはいかなかった。「その時、私たちにはその他の情報源がなく、民主や自由のことを知らず、外国の有様も知るすべがなく、中国共産党の言うことをみんな安易に信じてしまいました。ほとんどの人はそうなのです」
彼はその時、依然として共産党はまだ良いと思っていたため、1990年に彼は入党することにした。もちろん、その中にはいくつかの現実的な理由もあった。彼は、「党員になることはメリットがあり、たとえば会社の中でいくつかの良い車を購入した時、運送大隊の隊長が党員だったら、良い車を配分されるチャンスが大きく、いくつかの情報もその隊長が先に知ることができたのです」と話した。
(続く)
2009年5月25日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/5/8/200459.html)
|