日本明慧
■印刷版   

常人の時空への執着を取り除き、純粋な心で三つのことを行う


文/中国大陸の大法弟子

(明慧日本)最近発正念をするとき、頭の上にいつも重いものが乗っていると感じていました。今日発正念をするとき、ある法理が私の頭の中に現れました。「時間場の範囲に入らなければ、時間の制約を受けないと考えています」(『転法輪』)。毎回発正念するときは潜在的に常人の時間と空間への執着があり、発正念の邪魔になっていました。修煉は人心、常人の時間、空間、光、色などに執着してはなりません。

 この種の時間と空間への執着は発正念をするときだけでなく、他のところにも現れてきます。法を実証するとき、常人の時間の観念で行っているのです。もし、正念を持って行えばもっと素早く終えることができ、正念がもっと強ければ、より早く終えることができます。もし、衆生を救い済度することを行うとき、出発点が法理に従っているか、自分のためか、グループのためか、または私たちの地域のためではないでしょうか。空間観念が私たちの法を実証することを人為に妨害しているのです。行うすべてのことは自分を実証するため、グループのため、私たちの地域などのためであって、法を実証するためではありません。しかし、ここで強調したいことがあります。私たちは今、常人の時空で法を実証し、衆生を救い済度しているのです。常人の時空に執着しないのは、何かを行うときに常人の時空を考慮しないのではなく、金銭に執着しないのは金銭を放棄するわけではありません。ただ、頭の中でこの空間のすべてを法理に従ってはっきりと分かっていればいいのです。人はこの世界にいますが、心はここにありません。

 「修は己にありて、功は師にあり」(『転法輪』)私たちは三つのことをするとき、実際は師父が行っておられるのです。私たちが行っているすべては、師父が法を正されることと衆生を救い済度すされるこの空間での現れです。私たちはただこの中で、法理に従っていない観念と執着を探し当て、法に従って自分を正しているのです。もし、私たちが執着を取り除かず、もしくは気づいてないなら、私たちが行っていることに影響を及ぼし、私たちが良く行わなければその分失うことになるのです。何をしても自分がどれほどすごいかなどは、大法弟子が考えることではありません。ただよく行うだけであって、自慢することはありません。

 以上は個人の意見です。間違っているところはご指摘お願いします。

 2009年5月25日

(中国語:http://search.minghui.org/mh/articles/2009/5/21/201337.html