法を暗記し心を修めることについての体験(三)
(明慧日本)大陸の同修は直接邪悪に直面していて、もし正念が足りなかったら、少しも歩けなくなり、正念の重要さがはっきり現れます。それに比べて、海外の同修は法を正すことの進展にしたがって、する事が専業化し、メディア化、ネットワーク化、技術化されていて、ともかく、最大限に常人の状態に合わせる中で、もし法を学び修煉することを重視しなければ、常人の方式を強調しやすいと同時に、甚だしきに至っては私たち全体は正念の重要さを忘れてしまいます。特に、神韻のチケット販売や新唐人を広めること等、常人がそれなりのやり方で100%成し遂げることができますが、私たち修煉者としては、常人のやり方だとどうしても駄目です。それは修煉の要素によって、それぞれの結果が異なり、基準も異なっているからです。
法を正す時期に人と神は共にいますが、人は数が多く神は少ないのです。私は、その神は正念で人を救い済度しなければならないと理解しています。トロントの人口数百万人の中で、華人は数十万人もいます。彼らを救い済度するために、形の上で、私たちは神韻を広めてチケットを販売したりし、私たちはメディアがあり、各々の活動があって、実際、私たちは必ず正念を持たなければなりません。
常人は最も弱くて、大法弟子のエネルギー場は、念を動じなくても人を変えることができるのです。真念を動かせばさらに常人を変えることができます。その上、神韻チケットの購入や、新唐人テレビの加入は、形の上では完全に常人の商売の範疇に属していますが、私たちの強大な正念の作用の下で、彼らが無意識のうちにこのことを成功させるようにするでしょう。しかし、私たちの念は必ず純正でなければなりません。
実は私も恐れる心があって、新唐人テレビ加入の需要が要求に満たさないことを心配しました。しかし、法を学ぶ中で、私は、この恐れる心は面倒なことをもたらすことしかできないと分かりました。したがって私は、トロントは50万人の華人が救い済度を待っていて、ロジャースケーブルとレレコムと比べればほど遠いと思って、さらに多くの華人を救い済度することに、慈悲をもって頑張らなければならないと思いました。そのいわゆる「決まった基準」はただの仮相であって、無視します。恐れる心を取り除くことによって、正念がやっと純正になることができ、ようやく効力を発揮することができるのです。
私は、チケット注文が1人入ると、新唐人はいくらの収入が得られるかを知ってから、心の中で「それは良かった」と思って、とても心が動じてしまいした。法を暗記する中で、『開眼』の段落の「読経しながら、開眼した後、いくらもらえるだろうか、と考える僧侶もいる」まで進んだところで、私の心の中は震えました。私は自分の念が正しくないことに気づき、新唐人の収入は当然ながら、自分が知ったとしても、心を動かすべきではなく、何かの事をする出発点とするべきでもなく、それは正念ではなく、おそらくちょうど予想とは逆の結果になりかねません。
師父は、1999年「7.20」から、すべての大法弟子を所定の位置に推し進めているとおっしゃったことがあります。私は、それはつまり私たちの修めてできた部分はすでにできないものはなく、私たちの正念と繋がっていると理解しています。その上、師父は、法をよく学び、法をよく学び、法をよく学ぶようにとずっと私たちに言い聞かせておられます。すなわち、私たちに正念を強化し、正念を用いて、神通力を発揮して、世の人々を救い済度することを求めておられるのであって、これはどれだけ大きな期待なのでしょう。
私は1人の高齢の同修と一緒に観光名所で真相資料を配布していて、互いに10数メートル離れていました。その高齢の同修は配るのが速く、1部ずつ順調に配っていました。私は英語と中国語を駆使して大声で叫んだりして、全ての技量を用いても配るスピートが上がることはありませんでした。ある人は私の前を通っても資料を受け取りませんが、高齢の同修のところで資料を受け取ったのです。原因はどこにあるのかと言えば、正念なのです。功能は両端の人によく出てくると言いますが、老年の女性は執着心がないので特にそうなのです。したがって、彼女のその場と正念はとても純正で、念を動じなくても人を変えることができ、念を動じればできないものはありません。
真相資料を拒否した人のことと言えば、私は以前いつも多少心にかけていて、広々とした慈悲と正念がありませんでした。ある時も同じようにして、そして観光名所から家に帰るバスの中で法を暗記し、『煉功するその人が功を得る』の段落まで進めました。「昔は多くの僧が数十年も座り続け、歴史上の記録によればいちばん長いのは九十年余りですが、もっと長いのもあり、まぶたにほこりが分厚くたまり、身体に草も生えてきましたのに、まだそこに坐っていた」(『転法輪』)。私は、その90年も座り続けた僧は今日の大法弟子になったかもしれず、法を正す今日のために多くの苦しみに耐えて、繰り返し修煉をしてきたと思いました。私は突然、もしかしたら、そのかつての僧は真相を知らない目の前の常人であって、ちょうど先ほど真相資料を拒否した通行人だったかも知れないと思いました。その人はかわいそうなことに真実を見失って、中国共産党の害毒に騙されていて、私たちはその人を無視して、救うことをしないわけにはいかないのではありませんか。私は思わず涙を流しました。したがって、これから再びこのような人に出会ったら、私は心を動かすことなく、ただ今回駄目ならまた次回にして、私たちはあなたを救う方法はまだいろいろとあると思うだけです。
私は法を暗記し始めたばかりで、まだまだ浅く、すべてが正しいとは限りません。私は絶えず努めて、師父の法をしっかりと覚えて、照らし合わせながら行い、師父の下さった天の梯を登って行きます。
師父にお礼を申し上げます。同修の皆さん、ご清聴ありがとうございました。
(完)
(二〇〇九年カナダ法会での発表原稿)
2009年5月30日
(中国語:http://search.minghui.org/mh/articles/2009/5/20/201299.html)
明慧ネット:jp.minghui.org
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