日本明慧
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万能の黄金の鍵(二)


文/河北省の大法弟子

(明慧日本) 去年の4月、同修が仕事を見つけてくれました。1人で店番をし、お店に客が来れば商品の説明をしますが、それ以外は店舗の掃除をするという仕事でした。会社の社長は私の働きぶりに満足して、「あなたのように真面目に働く人はなかなか見つからない」と言ってくれました。社長の話を聞いた私は嬉しくなり、顕示心がじわじわと現れ始めたのです。社長に対し「そうでしょう! 私のような真面目に働く人はどこへ行っても探し当てられないでしょう!」と言ってしまいました。

  時には周りの人に対しても同じことを言っていました。しばらくして、社長から日曜日にも出勤して店を開けてほしいと言われたのです。私は日曜日の休みを利用して真相資料を配っていたので、これはきっと他の空間の邪悪の妨害と思い、決して認めてはならないと、取り除くために正念を発しました。数日後の日曜日に社長から電話がかかり、出荷するので直ぐ店を開けてほしいと言われました。これを断ったら辞めてもらうと言われました。

  私は店に向かう道中で不平不満を募らせ、「何を言っているのか、ただのアルバイトなのに。どこにでも仕事があるし、そんなことで私は恐れるとでも思っているのか? 今の仕事は自由が利くし、責任も無いから、安い給料でもガマンできる。でなければとっくに辞めている。給料の高いところはいくらでもある」などと考えていました。用を済まして冷静になってから、先ほどのことはどう考えてもおかしい、なぜこのようなことを考えたのかと思いました。修煉して遭遇したことに偶然はないのではありませんか。

  落ち着いて内に向けてよく探してみて、驚きました。こんなにも多くの人心が見つかったのです。褒められたときは、歓喜心と顕示心が現われました。日曜日に出勤を頼まれたときは、嫉妬心が現われ、他の従業員は私より働く時間が短く、昼休みもあり、もしかすると残業手当もあるかも知れないと疑いました。先月、私の給料から60元を引かれ、そのことで担当者と喧嘩してしまい、このことについて上司にも愚痴をこぼしていました。長年にわたり金銭に対する執着が放下できず、個人の損得をばかりにこだわっていました。

  これらの行為のすべては、常人としての現れではないでしようか? 完全に宇宙の特性に背いています。師父が言われたように、「名声に執着するならば、有為の邪法で、もし、世間に名を売っているのであれば、必ず口では善いことを言っていても心は魔であって、大勢の人を惑わし、法を乱します。金銭に執着するならば、財を求めて偽って修め、教を壊し、法を壊し、一生を空しく過ごして、佛を修めてはいないのです」(『精進要旨一』「修める者の忌」)ということです。

  師父の法に照らせば自分は修煉者と言えるでしょうか? 反省した私は、社長に電話をかけ、会社が日曜日に私を必要とすれば、私は出勤します、と言いました。社長は嬉しさのあまり「そうでなくちゃ、物事の分かる人は話が早い!」と言いました。すべての問題が解決して、もやもやとしていた気分が晴れやかになりました。

  私は子供の頃から何をするにしても自分の考え方をもち、能力もあったのです。ですから、人を見下していたのです。この観念は修煉の中でも強く現れました。同修の不足をよく見つけ、いつも同修が法に基づいていないと思い、指摘しているときは同修の上に立つような態度で話していました。問題が起きれば同修に問題があると思っていました。師父は「彼らが相手のどうこうを見る時の目で、逆に自らを見ることができれば、と思います」(『精進要旨一』「時間との対話」)といち早く教えてくださったのではありませんか? それなのに私は、いつも理由を付けて同修に悟らせようとか、常人から一歩踏み出させようという認識でした。

  特に今年の初めに、ある同修と交流する度に自分の意見に執着し、よく言い争っていました。自分が言ったことがいかに正しいか、相手が間違っているかを強調し、話している表情と態度には慈悲がなく、相手を納得させるため、機関銃のように一気に話してしまいました。これらの争い闘う様子は、まさに邪党の文化です。同修と別れた後も心のバランスがとれず、同修は法理の認識ができていないとか、次回その同修に会ったときは言ってあげなければならないとか、すぐそのように思ってしまいました。

  そして、納得させるため、それに見合うような師父の説法を探し始めるのです。表向きは同修のためですが、実は相手を納得させるためで、自分のメンツのために頑張っていたのです。どんなことも自己中心に考えていました。しかし、修煉とは内に向けて探し、自分を修めなければなりません。修煉者の次元が違えば法に対する理解も違い、悟りも違います。なのに、自分の悟りを人に押し付け、人を変えることができるでしょうか?

  師父は『転法輪』の中で「異なる次元には異なる法があり、どの次元の法も宇宙の絶対的真理ではないが、その次元においては指導作用がある」と述べられました。同修との間に問題が起きたとき、いかなる観念も抱かず、自分を放下し、同修と法理の上で交流さえすれば、法理の上でお互いに高めることができるのです。その後、自分が悟った法理を同修と交流し合い、お互いに認め合い、法理の上で向上することができるのです。

  師父はいつも、よく学法し、内に向けて探すようにと教えてくださいました。私は今やっと内に向けて探すことの妙なる境地を体験しました。その執着心を探し当て、取り除いてからは心が軽快になり、法に溶け込んだときの快さは、まさに大法弟子が歌ったように「一つの関、一つの難が、一つの天である」で、無条件で内に向けて探すことができるためには、心を落ち着かせてよく学法することです。 

  今日、修煉体験交流会の機会を得て、慈悲で偉大なる師父に限りない敬意を表し、慈悲なる済度に深く感謝いたします。弟子は修煉の道で止まることなく、師父が按排してくださった正法の道を正しく歩み、この万能の黄金の鍵を使いこなせるように精進いたします。 

  不適当なところがあれば、どうぞご指摘ください。

 (完)

  2008年6月2日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/5/17/201053.html