日本明慧
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修煉する以上法から離れられない


文/遼寧省大法弟子

(明慧日本)2002年11月、警官2人が家にやって来ました。私に法輪功修煉者であるかどうか、外に配布された法輪功資料を知っているかどうかと聞いたので、私は正直に答えました。当時、(警官が)来たなら、大法の良さおよび私が大法から受益したことを伝えなければと思っていました。しかし、私が話を切りだすと、警官はすぐに派出所まで行って話すように勧め、さらに記録するためにそうした方が良いと言いました。私は深く考えずについて行き、結局、行ったきりで、帰ることは出来ず、家も捜索されて大法の書籍と真相資料を奪われました。私も一日中留置場で監禁される始末でした・・・。


 歩む道が正しいかどうかを判断する基準は大法しかない

 私の家庭は他のたくさんの同修と同じようにめちゃくちゃになりました。子供が泣き、夫が暴れ、普段可愛がってくれる舅夫婦も豹変しました。私が「修煉しない」ことを承諾しないため、舅夫婦はいろいろな手段を用い、罵りながら私の顔面を殴りました。そしてまだ効果がないとみて、私の前に跪き、修煉を止めるようを頼みました。私は彼らの心を理解していましたが,彼らの白い髪の毛およびその場にいる皆の期待する目を見て、私は涙を流しながら話しました。「お父さんお母さん、私は間違っていません。私は心を曲げて嘘をつくことができません。大法はすばらしいのです」 このために私は留置場で「無感情」な人とみなされ、労働教養処分3年を科されました。当時私はこれも一つの試練であると思い込んでいました。何となく良くない気がしますが、少し悟りが足りなくて私のどこかが間違っているのかもしれませんし、師父の啓示を頂いても分からなかったので、ただ毎日法を暗記するように励みました。

 労働教養所の中で肉体的な苦しみを受けても大法への信念は動揺していませんが、人心がありおよび法理への認識も不足していたため、結局違う道を歩みました。しかし、修煉は厳粛なことだとよく分かります。大法は私の生命の奥深いところに根付いており、修煉の道において遭遇する事の良し悪しは、その判断基準が大法しかありません。釈放されてから、同修のおかげで、私は「7.20」以降の全く読んでいない師父の経文を通読しました。これで、何が旧勢力で、何が正念かと言うこと、どうすれば旧勢力の按配を否定することができるのか、正法時期の大法弟子とはどういう者か、正法時期の大法弟子の責任とは何か・・ などがすべて分かりました。
 
 以前『転法輪』を読んで、悟りについて余り分かっていませんでしたので他の同修にも聞きました。今は理解し、悟りと言うのは、学法に基づいて真に何かの問題および魔難に当たった時に、どれだけ師と法を信じることが出来るかです。ここまで考えて、恥じ入る気持ちと喜びの気持ちで一杯になり、涙が溢れてきました。

 大法の中で向上し、心性が真相を伝える中で昇華する

 「法の中に溶け込み」「正念を持って正行」「真相をはっきり伝え」「衆生を救い済度する」と言う言葉をマジックで紙に書いてベッドの横に貼り付けました。こうして自分の精進修煉に励み、自分の責任と使命を理解して実行するようにしました。

 真相を伝えるのはまず自分の親族から着手しました。最初、夫は邪魔することもありましたが、私の発正念および絶えず真相を伝えることを通じて、徐々に態度を変えました。しかし、私が外に出て学法および資料を配布することについては絶対に許さず、離婚するとまで言い出しました。これについて私が冷静に内に向かって探したところ、自分を傷つけられたくないという心があり、夫をただの主人と見なして、普通の衆生として対応しておらず、さらにこの状態を黙認していると分かりました。これで、私は夫のすることは本人の本性がしたい訳ではなくて、すべて旧勢力の按配であり、このすべてを否定し、自分がすることは全宇宙において最も正しいことであり、誰にも妨害することができないと思いました。離婚などについて、それは彼の一存で決めるわけでもありません・・・。私の考えが変わり、念を堅くして以降、他のことについても変わり、夫は二度と反対しなくなり、家事などもすることが無かったのに分担してくれるようになりました。

 舅夫婦に真相を伝えるにあたっては、彼らは聞いた途端に暴れて、すべての真相資料と『九評』を破き、大騒ぎして、ひどく罵りました。それどころか私の両親にまで電話をして、我々をすべて告発すると脅かしました。本当は善良で親切な2人がまったく別人のようになり、どうにもならなくなりました。甚だしきに至っては、我々は貴方の修煉上の魔であると口にしました。これも彼らの後ろにいる旧勢力が邪悪を操ってさせたことだと思いました。師父は『2004年シカゴ法会での説法』の中で「それらが作った魔難の中で修煉するのではなく、それらを認めない中で自らの道を正しく歩むのであって、旧勢力そのものによってもたらされた魔難の現れを消滅することさえ認めないのです」と、説いておられるからです。

 それから私の心理状態は落ち着くようになりました。毎日舅夫婦に対して発正念をし、彼らの後ろで操る邪悪の要素を一掃して、彼らがいかなる態度をとっても私は動じませんでした。数日がたっても私に対して効果がないので、この2人はベッドの上に横たわって呟き、心臓病を煩っている舅は目を閉じて自分の脈を数えながら堪えています。話もせず、ご飯も食べません。この時私の中の人心が動じました。彼らの言い分をすべて受け入れるわけにはいきませんが、2人がずっとこのような状態でいるのは少しひどいのではないかと私の中の人心が思いました。すると次第に正念が不足するようになり、怨恨心、不平の心もでてきて、ここを離れて二度と戻らない方が良いのではないかとさえも思っていました。こう思うこと自体余りよくない気がしましたが、なかなか心を静めて法を勉強することができませんでした。

 夜、姉のところに行っても、やはりどうしたら良いのか分からなくて家に戻りました。修煉は誰にも代わって貰えません。法はそこにありますから、人に頼ってもいけません。師父は『法は一切の執着を打破することができ、法は一切の邪悪を打破することができます、法は一切の虚言を打破することができて、法は正念を固めることができるのです』(『精進要旨二』「妨害を排除せよ」)と仰いました。私は師父に啓示を下さるようお願いし、大法がきっと啓示してくださると信じました。私が心を静めて大法を通読した中に「修煉界には、『修は己にありて、功は師にある』という言葉があります。一方、『鼎(かなえ)を立て竈(かまど)を設け、薬(くすり)を採集し、丹を煉る』ことや、意念活動のことを何よりも大事に思う人がいます。言っておきますが、ちっとも大事ではありません。そればかりに気を取られると、執着心になります」(『転法輪』)が現れ、大法の内包を見せてくれました。そして、師父の『洪吟二』の「執を去る」「阻む無し」の内包も頭の中に閃いて、私は直ぐに自分の過ちを知りました。それは、人情によって彼らの態度を重視しすぎることです。こうして直ぐに心にある重い物質が解体されて、悟った時点で状況も変わりました。

 翌朝、舅夫婦は家に来て謝りました。その中で再度跪いて私に修煉を放棄するよう頼みました。私は動じずに、彼らの人としての部分によく応対し、背後の邪悪を除去するよう発正念して、真相を伝えることにしました。帰る前に、舅夫婦は「共産党があなたを迫害し、私たちも迫害して、貴方の修煉は本当に大変ですね」と言い残しました。この話を思い出すと、いつもこれらの善良な生命の為に同情します。

 正法の進行に従い、師父に随って帰ります

 私の仕事はよく人と接触します。私は学法、煉功、発正念及び真相を伝えると言う三つの事について生徒の宿題のように対応しています。生徒は先生が残した宿題をしなければならず、私は接触する客をすべて重んじ、すべての人とは縁があるので、皆私の済度対象の衆生です。だから毎日会う人に対して、私はその人の家を真相を伝える場所にして、どんなに遠くても会いにいきます。その現地の状況や、真相を知らない人々の空間及び人々の大法に対する態度なども気になっているからです。バッグの中にいつも真相資料とマジックを入れており、客人を訪問する途中で随時配ったり書いたりし、不便なところでは発正念をして、大法の真相を伝えることを妨害する邪悪の要素を消滅します。

 手元の資料を、私は真剣に読んでから分別し、相応する資料を異なる地区に配ります。いつも綺麗に折り畳んで、興味を持たせる部分を表にしてから封筒或いは袋にいれます。この資料も生命があるので、入れてから資料と話をして、師父の正法の口訣を覚えさせます。これで、この資料を見るすべての衆生の背後にある邪悪な要素を解体し、そしてこの資料が最大の力を発揮して、もっとも必要とされるところへいくようを師父にお願いします。

 それから資料点を花の咲くように遍く作るようにという師父の要求に対して、私はある同修と一緒に資料点を作って、三退もよくしました。

 三退を勧める中で、以下のことを体得しました。それは、すべての対象は済度を待っており,相手がどのような反応をしても我々は動じないということです。発正念の他、我々はひたすら人を済度するだけで、相手は真相を聞き自分自身で選択するしかないのです。そうした状況を受け入れると、相手は大法弟子を邪魔しないし、良い効果ももたらします。心性がそれなりに達している場合、奇跡もおこります。多分このようなことは皆さんも思い当たる事があると思います。師父は、法輪大法の広大で深い内包は「その博大で奥深い内涵は、修煉者だけが、真に修める異なる次元の中で体験して悟ることができ、目の前に現れてくるもので、そうして初めて真に法とは何かが分かるのです」(『精進要旨』「博大」)と説いておられるのです。

 ここまで書いて、頭の中にいつもの場面があらわれました。私は3,4歳の子供のように、師父と手を繋いで歩きますが、私は後ろのことを気になってよく後を見たりします。過去の修煉を顧みるとは、このようなことではないでしょうか? 私は、ここまでたどり着いても、たくさんの人心をまだ取り除いていませんし、たくさんの執着にも気づいていません。しかし、私はきっと大法の中で修める事が出来、執着と人心を正せます。長い時間がかかろうと、道が遠く、険しかろうとも、私は師父の手を握って離さず最後まで師父に随って師父のもとに帰ります。

 私の体得であり、ご指摘をお待ちしております。

  2009年6月7日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/5/10/200560.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2009/6/2/107929.html