日本明慧
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真に内に向けて探し当てることができた


文/中国大陸の大法弟子

(明慧日本)私は最近やっと真の意味で、内に向けて探し、心を静めて自分を探し当てることができ、自分の執着心を多く探し出しました。修煉者としては、かなりかけ離れていることに気がつきました。近頃、人心が強い傾向にあって、真相を伝える時に口を開きたくなく、2週間で3回しか真相を伝えていませんでした。真相を伝えたとしても人を救い済度することができたかと言えば、決してそうでもなく、時には真相を伝える気さえありませんでした。まじめに内に向けて探し当てることによって、自分の心理的な惰性が魔に妨害されたことに気づきました。目覚まし時計が1時間余り遅くなったり、聞こえなかったり(真夜中をさす)して、夜になると、10時頃にはもう眠くなるのです。間違っていると承知しながらも乗り越えようともせず、ただ心の中で夜12時には発正念をして、それから寝て3時ごろ起きて煉功し、また発正念をして、6時10分になったら法を学べば良いと思っていました。

 これらは惰性から一連の執着心を引き起こしたのです。たとえば、私は小さい時から食べることに対しては執着がなく、何を食べても美味しいと思わず、腹一杯になればそれで十分でした。しかし、この数日間はなんとなく何かを食べたくなりました。徹底的に自分の執着心を探してみると、闘争心、恨む心、嫉妬心や、事が上手く行くと歓喜心が生じ、顕示心が出てくること等を発見することができました。

 修煉する前は、人間として生きることはあまりにも苦労が多いと思い、佛法を探して至る所をまわっていて、結局、心性を修めることを指導してくれるような師父を探し当てることができませんでした。それで、何人かの義兄弟と姉妹は、仏像の前で線香を立てて願をかけ、次のように言いました。「私たちはこの苦しい境遇から解脱するために、仏陀と、真道の、正法の師父を探しています・・そのためには、いかなる犠牲も惜しみません」 その後、本当の佛法「法輪大法(法輪功)」を得ることができましたが、自分は師父のおっしゃる「中士、道を聞く」のようで、別に修煉してもしなくてもよく、忙しければ修煉することを少なめにしていました。これらの執着は情や利己的な心理から来ていることに気づき、さらに深く掘り下げて考えてみると、根本的な執着は、大法を学べば保険でもかけたかのように、大法の中にいれば何も恐いものはないと思い込んだのでした。当初、佛法を得たときの自分は、至宝を手に入れたかのように、勇猛邁進して、どんな苦しみにも全て耐えました。邪悪に面したときの心理状態も落ち着いていて、正念に満ちあふれていました。しかし、いつの間にか修煉者としての基準で自分に要求することができなくなり、魔難が到来したときだけ、師父のおっしゃる通りにしっかりと行い、普段は自分を緩めていても、自分はいかなる難関をも乗り越えられる真修の弟子だと思い込んでいました。これはどんなに恐ろしい考え方でしょうか。私は今本当に、1人の真修弟子として、いつも修煉者の基準で自分に要求し、1つ1つの言動は全て緩めてはいけないのだと理解する事ができました。『洪吟・実修』の中でおっしゃった「事々く対照し 做すところ到るは是れ修」のようです。

 これらの長期にわたる執着心によって、人心を突破することができない上、外来の妨害の要素を受ける状態になったため、私は毎日のように心を静めて内に向けて探しました。2日前、私は座禅していると、突然1匹の暗い灰色のネズミが私の皮膚から出てきてすぐに見えなくなった光景を見ました。私は、これは自分が根本的な執着心を探し当てていて、邪悪な要素がどこにも隠れる場所がないのだと理解しました。私は即座にそれを取り除きました。

 この光景を見て、私は、修煉者の心にほんのわずかでも不正があれば、外来の要素が直ちに妨害しにやって来るのだと分かりました。人心が不純であれば、それらの霊体に指図されてしまい、さらに危険なことに、それを自分自身だと思ってしまいます。その他の空間には霊体があまりにも多すぎるので、あなたがそのいずれかに合致すれば、その霊体があなたを妨害しにやって来るのです。ですから私たち修煉者は、いつも正念で物事に対処しなければなりません。

 自分の全ての考えを正し、自分を本当の神に向かわせ、この世の中で、師父に遵って法を正すことを手伝い、師父の苦心を減らしましょう。勇猛邁進して、私たち全ての大法の粒子を1つに圓融し、難攻不落の全体となるよう、法を正す最後の道程をしっかりと歩みましょう。

 2009年6月15日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/6/12/202602.html