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常人のようなパソコンに対する執着を取り除く

(明慧日本)私は若い大法弟子で、今年27歳です。以前からたくさんの執着を捨てるべきだと思っていましたが、今日は常人のようなパソコンに対する執着について自分の次元で悟ったことを述べたいと思います。間違っている所は同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 長い間、パソコンゲームに対してとても執着していました。特に、競争ゲームに対してとても興奮します。ゲームをするときは、はっきりと自分の闘争心、顕示心、名を求める心、怨恨の心、せっかちで怒りっぽい心などの人心が現れます。同修の文章で、ゲームに対する執着心を取り除くことを述べたのを見たとき、同修は文章の中でゲームの中の人物は生きていて、ゲームの中で生命が殺された時、別空間で実際に起きているので、これも殺生だと言っていました。だから、無意識で自分に大きな業力を作ることになります。良くないことは分かっていますが、7年間ゲームをやっていたので、なかなかやめられませんでした。ゲームをするとき、他人に褒められ、感服されたとき、嬉しさ、美しさ、顕示心、名を求める心、歓喜心、自分を実証する心が暴露されます。しかし、ゲームに対する執着心を捨てようという思いがまだ決意を固められず、ただ自分を抑制するよう自分に言い聞かせるだけで、いつも遊んでしまいます。

 数日前に明慧ネットに提載された、台湾南部の大法弟子が録画したビデオの中で、慈悲なる師父が大法弟子の功柱を世間に見せ(大法弟子たちの頭上にそれぞれまっすぐ空に向かっている功柱が映り、人が動くと功柱もついて動く)、そのビデオを見て、感動して涙が止まらなくなりました。大法を修煉してから、師父は私のために身体を浄化し、師父が大法弟子の代わりに耐えてくださったすべてを思うと、まだ捨てられない執着はあるのかと思い、ゲームに対する執着心を取り除くことを決心しました。

 その執着心を取り除いたとき、本当に「柳暗花明又一村(目の前に新たな世界が開ける)」でした! その心を捨てたとき、何でも捨てることができました。私はまだパソコンのネットTV、常人のウェブサイト、映画、サッカーなどの常人の執着を捨てようと思いました。パソコンは学法し、法を実証し、同修と交流をする法器(法を実証するための道具)です。今後は大法弟子のサイトだけを見て、師父に遵って法を正すことに十分発揮する作用を働かせます。

 今日『転法輪』の第三講の「毎日法輪功の幾つかの動作を行うだけで、法輪大法の弟子と言えるのでしょうか?そうとは限りません。本当に修煉しようと思えば、われわれの言う心性基準に基づいて自らを律し、本当に心性を高めなければならず、それこそが本当に修煉です。ただ動作だけをやっても、心性を向上せず、一切を加持する強いエネルギーがなければ、それは修煉とはいえず、われわれもあなたを法輪大法の弟子として認めるわけにはいきません」を学びました。この段落は、師父が私に言っているようで、私の心性が常人の基準に落ちた時、師父はまだ私を弟子にするのですか? 私はまだ大法弟子なのですか?

 それを思い出すと、師父に申し訳ないと思いました。自分が精進しないことを恥ずかしく思い、後悔しました。当然、師父は慈悲深く、一人も捨てたくないと分かっていますが、私たちの心性が法に基づいてないとき、師父に何かできますか? 溜め息をつくだけです。この限られた時間の中で私たちはたくさん法を学び、三つのことをしっかりと行い、有史以前の大きな誓いを果たし、圓満成就して師父と一緒に帰りましょう。歌の歌詞、「後悔を永遠の後悔にしないでください」のように。

 2009年6月15日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/6/11/202530.html