内を探して観念を打破し、自分に対する執着を克服する(一)
文/カナダ・カルガリーの大法弟子
(明慧日本)尊敬する師父、同修の皆さん、こんにちは!
私はカルガリーの修煉者で、中国大陸からカナダに来て1年が過ぎました。ここに来る前、私は他の同修と接触して、付き合う機会が少なかったので、集団で法を実証する環境に入ることに憧れていました。カナダにいる1年余りの間に、私は運良く、神韻のチケット販売に2回参加しました。修煉の貴重さを深く感じ、その他の同修と一緒に師に随って法を正す過程の中で、大法の無辺の知恵に対する理解が深まっています。今日、私は主に同修と付き合う過程の中で、また神韻のチケット販売に参加する過程の中で内に向かって探し、観念を打破し、自分に対する執着を克服したわずかな心得を話します。適当でないところは同修の皆さんの慈悲なる指摘をお願いします。
一、修煉に参加してから、同修の言動に対する困惑
カナダに来る前に、私は中国大陸の大学で働いており、大法の書籍を入念に読む機会がありました。仕事で接触した学生、同僚と友人に大法の真相を伝えました。私が大法の同修と接触する前、大法の書籍に対する理解に基づいて、私が思っていた大法弟子はすべて修養がとてもよく、温和で上品で、面目が優しく、思慮が深く、落ち着いている大徳な人でした。そのため、大法の修煉者に対して憧れと敬意を持っていました。
カルガリーに着いて2週間目に、私は煉功場の集団煉功に参加しに行きました。しかし、私が会ったり、聞いたりした煉功者の印象は悪く、私をとても意気沮喪させました。たとえば、ある人は口を修めず、ある人は言葉つきが優しくなく、ある人はプロジェクトがとても必要とする時に仕事を途中で投げ出し、ある人は負けず嫌いで、傲慢な態度で人を威圧しました。チケット販売が非常に難しい時、大局を重視せず、自己を強調し、いつも他人を注視していました。その上、意見が異なる時、すべての人はいつも機敏に経典を引用して、大法がどうのこうのと言いました。しかし、本質の問題を解決することはできなかったのです。
大法弟子の間から、言葉や行動や交流上の些細でつまらない現象で、私は長い間とても困惑しました。私はこのようないくつかの問題に戸惑いました。すべて大法の修煉者なのに、どうしてこのような情況が現れるのでしょうか? これらの現象がどうして私に見えたのでしょうか? 直接私に対立する人はいないのに、私の心はどうしてそんなに辛くなるのでしょうか? これらはとても簡単な問題で、みんながちょっと度量ある態度で、各自が少し譲歩したら、問題が解決できるのに、これらの真善忍を修めている人はどうしてできないのでしょうか?
これらの問題を考えるときに、私は時には調停を試みて、いくつかの提案を出しました。しかし、これらの努力は積極的な効果がなく、情況も明らかに好転せず、かえって多くの場合、私が介入したことでまた事情がいっそう複雑になりました。
二、学法する過程の中で内に向かって探す
このことは私を挫折させ、ひいては長い間経過しても、悲しいままでした。しかし、師父は言われました。「二人がトラブルに遭ったとき、それを見た第三者まで自分を考えるべきです」(『オーストラリア法会での説法』)私はやはり努力して内に向かって探しました。
私が戸惑ったのは、私の問題はどこにあるのか、ということです。私が見たこれらの現象は、同修の問題だと思いました。たとえば時間を守らない、信用を裏切る、私は自身がやはりとても注意して、しっかりと行おうと思ったので、彼らが約束を守らないのを見て、彼らが間違っていると思っていました。どちらかの同修が口を修めず、自分を実証する心が強すぎ、あるいは悶着を起こすことは、彼らの修煉状態が悪く、常人の心があまりに強すぎることによるものでした。
私が言ったことではなく、彼の言った話が私の耳に聞こえ、私の知っている情況と違っていたため、私は彼が間違っており、私の間違いではないと思いました。ある人は他の同修を軽蔑し、自分の修めた次元が高く、理解したのが良いと思って、いつも彼の考えによって他の人を支配したいので、みんなの気分を悪くさせ、みんなの関係に影響しました。これは彼が内に向かって探さなければならないことで、私は何もしていないので、私が内に向かって何を探す必要があるでしょうか?
長い時間をかけて探し、困惑した時間もとても長かったのです。この問題を抱えて、私がとても長い時間を使って師父の毎回の説法の中で修煉者がどのように矛盾に対処するか、および大法弟子の間の矛盾に関する説法を重点的に抜き書きして読みました。
私は発見しました。師父の説法の中に修煉者はいかに対処するかの分量がだんだん多くなり、2007年のオーストラリアの学習者に対する説法になると、師父は修煉者がどのように矛盾に対処するかについて特別に説法をされました。しかし、総括すると、師父は法を伝え始めた時にすでにはっきりと説かれました。
どんなことに出会っても内に向かって探して真善忍に同化し、他人のために物事を考えて行動し、模範的な英雄人物よりさらに良い人になります。「羅漢の次元に達すると、どんなことに遭遇しても心にかけず、常人の中のどんなことも全然気にとめず、常ににこにこしています。どんなに大きな損をしてもにこにこして平然と笑っています」(『転法輪』) 常人の中で修煉しているので出会ったすべての事に対して、同じく心にかけず、平然と笑っているべきでしょう。他の同修の表したことがよくないのを見て、つらいと思うのはなぜでしょうか?
このため、私はある同修と交流しました。私は「修煉者はどうしてこの様子なのでしょうか。もし師父がみんなの様子を見られたら、きっと悲しまれます」と言いました。相手は「なぜですか」と私に聞きました。私は「学校の先生を例えにしましょう。学生が大学に入学した時、あなたは彼にいくつかの基本的な原理を教え、これらの原理は大学のすべての理論を勉強する基礎です。しかし、大学を卒業して、彼がその原理を何もわからなければ、この先生はきっととても悲しくなるでしょう」と言いました。私はまた「もし私の学生がこのようになったら、私はとても悲しいです」と補充しました。
その時、同修は答えました。「師父は毎日私達の傍におられて、何もかも見えておられます。師父は人間の悲しみがありません」
この回答は私をとても震感させ、非常に大きく啓発させました。私は思わず角度を変えて、同修の不愉快なことを見直しました。私は発見しました。私は人の思惟と感情を使って神の考えを推測していました。人は悲しみますが、神はそうではなく、神は慈悲なのです。
常人の中で、私は良い先生になろうと努力し、自分の学生は自分が設定してあげた基準に達してほしいのです。しかし、偉大な師父は情欲だらけの何千万の弟子を地獄から救い、これらの弟子達のために巨大な業力を引き受けられました。さらに細かく綿密な修煉の道を円満になるまで私達に按排してくださり、しかも、私達を宇宙の生命が最も羨ましがる偉大な神に育て上げられるのです。その間、もちろん弟子達には無数の「間違いや転び」があり、私が見た同修の間に発生した人を悲しませる各種の表現も含まれています。しかし、師父の偉大な知恵と慈悲はこれらの些細な表れに動かされません。次元と境地の違いで、完全に異なった結果と状況が派生すると私は理解しました。
この方面のことに気付くと、私は悟りました。私はいっそう広大な度量と視野で修煉者の間に発生した事を理解し、私の智能を広げ、もっと大きな器にならなければなりません。これは私が内に向かって探す過程の中で大きな進展となりました。
(続く)
(二零零九年カナダ法会での発言原稿)
2009年6月16日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/5/19/201241.html)
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2009/6/9/108145.html)
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