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家が盗難に遭ったことの反省


文/山東省の大法弟子

(明慧日本)朝起きてみると台所の窓が開いたままになっており、バッグの中の物が散らばっている事に気づきました。子供の部屋に行ってみると、ノートパソコンがなくなっていました。子供が外出していなかったため、夜中に空き巣に狙われ、部屋に入られてパソコンのほかにもMP3を盗まれたとわかりました。

 私は修煉者なのに、なぜこんな事に遭うのでしょうか? 法理によると、我々は師父の法身に保護され、護法の神もいるので、誰かが我々の物を取ろうとしてもできないはずです。きっと私に漏れがあって、邪悪に隙に乗じられたと思いました。同修と交流したら、皆はこの事件は不可解だ、内に向かって探すべきだと助言してくれました。家に帰ってから、私は心を静めて、自分を反省しました。

 漏れがたくさんありました。修めるべきことが全然できておらず、たくさんの人心が放下できていないのです。もっとも致命的なのは学法が少ない事で、時間を無駄にしていて、緊迫感がありません。他にも闘争心が強い等、人に何か言われるのが嫌で、師父が指摘されたように、言われると直ぐ爆発し、耳に痛い言葉は聞き入れません。家庭でも、子供に対して同様な対応でした。些細なことで大きい声をだし、自分は発散してすっきりしますが、相手が苦しくなります。これではどこが修煉者なのでしょうか? 普通の常人にも及びません。

 他にも、顕示心、歓喜心があり,三退を勧め、真相を伝える時にもよく自己を誇示します。たまに資料を多めに配っても口に出して言い、同修の前で誇示し、交流するというより自分を顕示すると言ったほうがいいようです。実際には、自分が真相を伝え多少は動いているようですが、真に人を済度するのは師父、大法なのです。

 ある日私は市場に行って、真相を伝え、すぐ18人を三退させました。それで嬉しくなって同修に伝えました。するとその同修は次のようなことを話しました。「ある農村から来た同修は、他の2人と一緒に銭湯へ行き、午前中で50人を三退させ、そしてこの同修は他のもう1人と一緒に市場で80人を三退させました」 私はこの話を聞いて、他の同修は皆精進していると感心しました。精進している同修はすべての時間を利用して衆生を救い済度し、三つのことを見事にこなしています。本当に神が人間の中にいて、神の事をしているようです。師父が言われたように、「大法弟子」ができないことはないのです。しかし、彼らはちっともみせびらかすような自己誇示もせず、自然体で普通にしています。それに比べたら私に誇示する資格がどこにあるでしょうか? 

 私の近所に70歳を過ぎた同修の夫婦がいます。2人は資料点を作り、DVD資料を焼きつけ、協調人を担当し、同修の為に機器と消耗品を買っています。オリンピック開催中には、2人は正念を持ち、プレッシャーにも関わらず1日も休まず活動しました。いつも、「衆生の為であればやりますよ」と話しています。

 同修の乙さんは直接人に真相を伝え、資料を配り、どんな天候にもかかわらず続けてきました。そして最近ディスクを焼くのに資金が必要だと考え、2700元の年金から2000元をディスクを焼きつけるために使い、神韻を広めています。

 もう一つとても感慨したことがありました。田舎に資料点を作るために、私は設備一式を購入して簡単に使い方を教えてあげて、再び包んで袋にいれて渡しました。そして、もし誰かに聞かれたらこれは買ってきた鍋だと答えればいいと教えました。しかし同修は、人と会っても聞かれないようにし、まずその人が動けないようにする、と言いました。私はこの話を聞いて、とても感慨深かったのです。やはり物事の良し悪しは一念によります。同修は神の念を持ち、私は人の念で、人の考えです。一念の差が、人と神の違いで、これこそ不足ではありませんか? ここでも私の人心が反映されました。

 家の盗難事件から考えたことですが、それも私の良くない念から招いたことです。偶にある窓を閉める時に、三階建で道路の傍にある家で、街灯も明るい環境の中にあるので、だれも大胆にここから入る勇気がないだろうと考えました。これはすでに良くない念です。また時々寝る前に携帯電話をリビングから寝室に持ってきます。以前泥棒が入った時は携帯まで盗むことがあると聞いたからです。

 これも頼んでいることではありませんか? 師父は『転法輪』の中に「病気を求めることにほかならず、そうなると病気が本当に身体の中に侵入してきます」

 と説いておられます。私はやはり無意識に求めていて、自分でさえわからなかったのです。時には、資料を持ってあちこち隠しながら、ここがだめで、そこがいい、そこは邪悪に発見されないだろうと妄想します。直ぐにこれこそよくない念であり、邪悪を承認していて、もっと大きい漏れになり、もっと危険ではないかと分かりました。

 なぜ盗難にあったかといえば、師父が私の良くない念を見て啓示しておられるのです。盗難は小さいことですが、もし念が歪んで邪悪に隙に乗じられたら大きい損失につながると注意されています。本当に最後の時まできて法の我々に対する要求も高くなります。本当に探さなければわからないのですが、真剣に探せば問題がいっぱいで、少しのよくない念を発見しても直ちに規正するべきで、何処でも法に基づいて行うべきです。

 私たち煉功者の場は正念の場であり、純正で和やかになるはずで、佛光が普(あまね)く照らせば、礼儀が圓明(えんめい)となることです。そうすると邪悪の人間も近付こうとする勇気がないはずです。この事件を通じて、私の師と法へ対しての「信じる」という問題が露呈しました。

 師と法を信じてこそ「正念正行」することができます。これらの事から私は教訓を得て、真剣に学法を行い、問題が発生したら内に向かって探し、最後の道をしっかり歩んで、大法弟子の威徳を樹立するよう頑張ります。

 2009年6月17日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/6/2/202041.html