日本明慧
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手懸りに沿って執着の根源を探す


文/海外の大法弟子

(明慧日本)ほとんどの人は嫉妬心という執着を持っており、それはただ程度の違いだけです。私は修煉を始めた頃、この強烈な執着を感じましたが、常人の頃は自分の嫉妬心の強さが分かりませんでした。修煉するにつれ、内に向かって探すことにより、この執着心にやっと気づきました。人は全力を尽くして努力すれば、成功できると平素からずっと思っています。ある同修は私より多くの功能を持ち、天目は私より更にはっきり見え、体験は私より更に豊かだと分かった時、私は心のバランスが崩れ、気持ちが重くなりました。この同修は私よりかなり遅く修煉を始めており、そして精進は私に及ばないのに、どうして彼女の能力が私より大きいのでしょうか? このようないろいろな嫉妬心があるからこそ同修間に多くの間隔が生じたのです。

  私は、学法を通してこの執着の原因が分かりました。これは法理がわからなかったせいではなく、法理を誠心誠意、認めることができなかったからです。私たちは法理をよく理解することが出来ても、自分の情緒をコントロールする事ができません。自分の執着を真に認めた時こそ、私たちの修煉は初めて前進し、自分の真の家に更に一歩近づくことができます。師父が教えてくださったように「なぜ人間が生まれる時男女の区別があるのですか? 姿かたちも違うでしょう? 生まれつき病気の人、奇形のある人もいますので、同じではないのです。高い次元から見れば、他の空間に人の一生涯のすべてがそこに存在しているので、同じであるはずがあるでしょうか? 何でも平均化したがりますが、運命の中にそれがなければ、どういうふうに均等にするのですか? 違うものは違うのです」 

  人の一生の中で、私たち一人一人は他の人と同じではありません。これは私たちの根基と、自分自身が持ってきたものと関係があります。繰り返した輪廻転生の中で私たちは徳と業力を持ち、これらは私たちが今世で何を擁するのかを決めます。ある同修は「しかし、あれは前世のことですから、わたしは知るはずがないでしょう」と言いました。実際、私たちは知らないのではなく、認めたくないからです。 

  この嫉妬心について自分の考えを直す時、私は学法と煉功を毎日頑張って行い、とても精進しているようにみえても、あれは求める心を抱いて行ったもので、そのこと自体が一つの執着心だと気が付きました。また自分を実証する心や、闘争心も見つけることができました。私は家族中から成功した人と見られ、周りの人々からもよく褒められました。そのため、他人が私よりもよくできているのを見て、私は嫉妬心が生じました。

  私たちは内に向けて探せば執着心を見付けられます。そして、深く探せば、更に多くの執着心を見つけることができます。心の中に深く隠れている執着心はすでに私たちの一部になりました。私たちはこの道徳が堕落した善悪を判断する基準を失った社会にいるからです。執着心は一房の葡萄のようで1粒1粒は一つの執着心を表しています。私たちが蔓に沿って葡萄蔓の根(自我)にしがみ付く時、それらは私心の現れに過ぎません。

  真の学法と修煉を通じて、師父は私を励まして下さいました。ここで私は、同修に更に精進し、更に自分に厳しく、身を入れて修煉を行わなければ、自分を騙し、人をも騙すことになると言いたいのです。

  以上は私の理解で、不適切なところがあればご指摘をお願い致します。

  2009年6月18日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/6/12/202637.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2009/5/16/107451.html