日本明慧
■印刷版   

師父の講法を拝聴して、不思議を証明する(写真)

(明慧日本)(明慧記者李慧容報道)

  1993年に修煉を始めて、今アメリカに住んでいる法輪功修煉者の李さんは自分が法輪功に入った不思議な体験を述べ、法輪功の修煉者になることは彼女の一生の修煉だと表しました。

  徐さんは1994年に李洪志先生による黒龍江ハルビンと吉林延辺両地での法輪功の勉強会を二度も自ら拝聴したことについて、彼女の一生の中で最も喜ぶ時間だったと言います。法を得た後に、彼女は良い人になること、いつも他人のために考えることが分かりました。このように彼女の世界観の変化とともに、心身の喜びもありました。「私はさっと分かりました、たとえば、何かあったら我慢する、人に対して 仲良くし、善念が必要だという考えになりました。そしていつも他人のために考えるのでした。その上とても喜びがあって、心の中でいつも嬉しくなりました。その間は本当に一生の中で忘れ難い時間でした。そのときから私が今まで14年間患っていた腰椎間板ヘルニアの痛みが消え、他の病気もすべてよくなっていました(録音)

  法輪功を修煉する前に、徐さんは腰椎間板ヘルニアで約1年間、正常に仕事をすることができませんでした。マッサージ、鍼灸などの治療法を試みたことがありましたが、ぜんぜん効果がありませんでした。1994年8月にハルビンにある法輪功の勉強会に参加して、彼女の運命は変わりました。「1994年8月の初め、他の人の紹介で、この気功の勉強会に参加しました、私はそのとき気功で治療できることを信じていませんでした。その後皆がまたハルビンへ行くことを勧めたので、ちょうど私の学校も休みだったので、試してみようという気持ちで行きました。そこに着いたのは夜でした。私達は師父の講法を聞きました。1回目の授業が終わった時、私の腰は意外にも痛くなかったのです。2時間経っても、おや! 今日わたしの腰は痛くなかった!? それから、後のクラスの10回の授業の8日間を経て、ますます精神状態は変化して、腰がそんなに痛くなく、自分の世界観も変わり、別人になったようで、精神状態はすっかり変わりました」

  徐さんはまた一つの不思議な体験を述べました。師父が吉林省延吉市で講座を開かれた時、大連空軍学校で働いていた若い人が2カ月ぐらいの赤ん坊を抱いて師父に感謝の気持ちを表したいと入り口で師父を待っていました。この若い人は徐さんに、師父が彼の子供の命を救ってくださったと言いました。彼は大連に住んでおり、子供は生まれてから病気で、どこも子供の病気を治療することができず、 彼は気功を試してみたのでした。北京気功科学研究会の責任者は「法輪功」が病気を治療することができ、今延吉市で講座を開いていると彼に教えたのです。彼は北京から飛行機に乗って延吉市に着き、奥さんと一緒に子供を抱いて会場の入り口で師父に会いました。師父は「私はすべて知っています」と言われ、子供を抱いて奥さんを宿泊所に戻らせ、彼に受講に来させました。この若者が受講するうちに、子供は日々良くなりました。その子供はその時乳を飲むことができず、病気はとても重かったのですが、しかし日に日に子供は正常になり、最後に 勉強会が終わった日に彼は子供を抱いて来て、この赤ちゃんは師父の一番幼い弟子だと師父に伝えたかったのです。私はこの法が本当に非常に不思議だと感じました。私は自ら彼の話を聞いて、そのときから私は法輪大法を修煉し始めました」 

  法輪功は私の一生の追跡です

1998年、北京戒台寺での集団煉功

 李さんはかつて気功の愛好者で、中国大陸で気功が流行っていた数年間に、多くの功法に接しましたが、すべて彼女の心を動かすことはできませんでした。ある日、1人の同僚が彼女の事務室に入り、彼女に法輪功の当時の唯一の本『中国法輪功』を紹介して、自分が法を得た非常に不思議な体験を述べたのです。

  「ある日彼の同僚が奥さんと子供と一緒に両親の家に帰ったとき、彼は尿道結になっていました。彼は痛くて、ベッドに転げ回っていたとき、ちょうど彼の父の煉功場に手が空いていた弟子が1人いて、その弟子を呼んできました。その弟子は彼の腰部から順番にたたいて、背中から下へ、足のほうにたたき、明日トイレに行く時、痰壺を使ってください、あなたは石が見えるはずだと言いました。それから翌日彼が排尿する時に痰壺を使うと「ピーン」という音がして、一つの小さい石が落ちて、すぐに痛くなくなりました。そのため、彼はすぐに修煉に入りました。

  彼が私の事務室に来て私に教えたおよそ1週間前のことでした。私は本があるかと聞くと、彼はあると答え『中国法輪功』を持って来て私に読ませました。私は事務室で読み始めました。それから、私は本当に驚きました。心の中で、これは私に必要なものだ、これを私は探していたと思いました。私は1週間後に本を返しました。何度も読み返したと李さんは言いました。

  李さんは自分が法を得たばかりのときの感覚について、「その時には『転法輪』がなくて、ただ『中国法輪功』しかなく、毎日それを読んでいました。特別な感じとしては、毎日読んでも、また多くの道理がわかったと感じました。読むと、字の間からまた別の道理がわかり、私は傍の人に対して、『ほら、あなた達は知っていますか? この本は生きているのよ!』と言いました。その時は師父が言われたことをすべて理解したい、頭の中に入れたいと思いました」

  李さんは1993年に大法の修煉を始めたときに、4回も李洪志先生の講法勉強会に参加して、大いに受益しました。

  彼女は「私は勉強会に参加して、私の全体の手の平から1日中外に熱が出たため、とても熱くて、まったく握ることができず、手を伸ばしたままで、すごく熱かったのです。またあるとき、かかとから外へ熱流が出てきて、手で触ってみました、熱くありませんでした。あるときは、ひざが『びりっ!』として熱流が噴き出していました。師父がおっしゃった通りに、いかなる情況があってもすべてよい事です。すべて法を得た後に、修煉中に出てきた状態でした」(録音)

  法輪功が病気を追い払う奇跡を証言する

  1993年末に、国の大規模な気功活動を支持するために、李洪志先生は弟子を連れて北京展覧センターが催した『東方健康博覧会』に参加されました。その間に李さんは大法が病気を追い払う奇跡を目撃し、証言しました。

  李さんは「私は1人の脳腫瘍を患っていた人に出会いました。彼の入院中に知り合った友人から情報をもらい、彼の友人は1992年東方健康博覧会に治療を受けて治りました。その展示場には10人くらいの弟子がいて、師父が手を差し出してくださったのです。つまり彼らに功を与えて、彼らの手を遮蔽して健康博覧会で人の病気を治させて、国の大規模な気功活動を支持しました」 「その時に1人の弟子が彼の頭の治療をしました。彼はどうしていつの間によくなったのかと不思議に感じました。私達が彼にあなたは家に帰るとすぐ分かるはずですというと、彼はとても満足して帰りました」

  多くの患者が師父から治療してもらいたがっていました。1人を車椅子に座らせて家族が押して来ました。「師父は彼の背中を少し叩いて、それから彼を立ち上がらせると、彼は本当に立ち上がることができました。師父が前に向かって歩くようにと言われたら、彼は前に向かって歩きました。翌日彼の家族は感謝状を送ってきました」

  李さんはまた1人の小さい女の子のストーリを述べました。「私が目撃した、1人の小さい女の子は母親に連れられて来ました。およそ3、4歳ぐらいでした。彼女はちょっと歩いてひざまずき、歩けませんでした。彼女の母はまた彼女を立たせて、前に向かってちょっと歩かそうとしましたが、だめでした。師父は彼女を治療されましたが、特別な動作は何もなく、彼女が師父の目の前にいて、師父は彼女を見て、師父は、よくなった! と言われました。そうするとまっすぐに正常に歩きました。彼女の母は彼女をつれて家に帰りました」(録音)

  1993年に法輪功は2回目に東方健康博覧会に参加しました。李さんの紹介によると、法輪功の展示場所に見学に来た人はとても多くて、毎日数百人の病気を治しました。展示場所のそばには感謝状がいっぱいに貼ってあり、李さんは法輪功が博覧会のグランプリを獲得する授賞シーンを目撃しました。

李洪志先生は1993年健康博覧会の「学際科学進歩賞」と「大衆に歓迎される気功師」の称号を獲得した

 博覧会で授与するグランプリは、「学際科学の進歩賞」と大会の「特別な金奨」及び「大衆に歓迎される気功師」などの称号で、李洪志先生は最も多く獲得した気功師でした。

  大法を修煉した後、まわりの修煉者は毎日変化がわかりました。性格および道徳の昇華はとても速いものだったと李さんは言いました。

  「ある人の性格はとても悪く、人を罵りがちでしたが、その後は同僚達と付き合ううちに、とても冷静になりました。この面の感受は深かったのです。温和で善良に他人に対することができました。1人の修煉者がいて、彼女の姑の家から誰かが来ました。彼女の話によると、たくさんのものがほしいのです。彼女はいくらかの金を貯めていて、もともとはソファーを買う予定でしたが、結局なくなりました。当時心の中はアンバランスでした。私たちは交流して、財に対する執着を放下すべきだと認識しました。他人に優しくするべきで、アンバランスの思いはありえないことでした」

  故郷が北京にある李さんは、当時の北京の各大公園で集団煉功する場面を思い出しました「中山公園の煉功場には、人が特に多く、 朝4時から6時まで一つの時間、6時から8時まで一つの時間、8時から10時までまた別のグループでした。それぞれの時間毎に参加する人も違いました。人が非常に多くいました。紫竹院公園とか、中山公園とか、また地壇公園、天壇公園があって、みんな時間を分けてしなければ立つことができませんでした」(録音)

  李さんは1996年にアメリカに移り、当地で煉功場を開きました。

  2009年6月18日

(中国語:http://search.minghui.org/mh/articles/2009/5/20/201297.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2009/6/3/107962.html