ある小さな出来事が分厚い観念を突破させてくれた 文/ドイツの大法弟子
(明慧日本)尊敬する師父こんにちは! 同修のみなさん、こんにちは!
私は今日、自分でも意識できていなかった観念を突破させてくれた、一つの小さな出来事について、ご報告いたします。この観念は私自身に害を与えただけでなく、私たちが成した全体にも害がありました。
昨年、私はとても長い間身体がとても重く感じられ、特に脚が重かったのです。こんな感覚が来てはまた去っていき、私はこれは私の修煉状態と関係があると意識しました。しかし、私は問題点がどこにあるか見つかりませんでした。私の生活は三つの部分に分けられます。一つは個人生活であり、私は年を取った友人と病気の姉の面倒を見なければなりません。もう一つは自由業者として仕事をしないといけません。もう一つの部分はドイツ語の大紀元の編集の仕事をするとともに、神韻芸術祭のことを行うことです。
師父の慈悲なる按配により、私は10月に一時的にこの環境を離れて、ロサンゼルスに行き、希望の声、新唐人と大紀元の従業者に、プログラムのレベルを向上させるための、発声訓練のレッスンを開きました。
これは私の常人の中での仕事でもあり、私はプロとアマチュアにいかに身体と発声器官との関係をうまく処理するかの訓練を提供し、彼らを手伝って練習させました。
ロサンゼルスにいた五日間は、私にとって気が楽で、人を興奮させる期間でした。ロサンゼルスでは、三つのメディアのオフィスが同じ階にあったため、私はずっと修煉者の中にいて、また修煉者の自宅に泊まっていました。
毎日作業量はとても多く、常に連続して数時間他人のほうに注意力を集中しなければなりませんでしたが、私は常にとても速く精神と体力が回復しました。学法と煉功もとても多くやりました。訓練後には一日半観光をしてから、ドイツに飛んで帰りました。路上で私は一睡し、とても長い時間飛行機に乗って、ベルリンに着きましたが、まったく疲れを感じませんでした。
私は、自分が体力的にも精神的にも非常に楽であることに驚きました。帰ってからはじめの数時間内に、私はあの重く感じさせる感覚が再び現れるかどうかを密に注意しました。家に入るとき、それは現れませんでした。うちに泊まっていて、たまに私が面倒を見ることを必要とする96歳の女性に会いに行った時、それは現れませんでした。私が山積みの手紙を読むとき、それは現れませんでした。私がEメールを確認するとき、それは現れませんでした。私はまったくインターネットに接続していなかったため、Eメールが溜まっていました。
しかし、私が大紀元編集部からのメールを読むとき、その身体の重い感覚がまた現れてきました。私はまるで石で私を下へ引っ張っていくように感じられました。私はすばやく、問題の半分は私にあり、残り半分は他人にあると思いました。彼らはいまだに互いに文句を言っており、またこれほど質のよくない文章を多く書いていると思いました。当然ながら、このとき私は、自分が何回か自分の仕事をよくこなしていなかったか、などについて考えませんでした。私は、自分に向けて私たちはどうすべきか、と問いました。内に向けて、これらはみな私の問題なのか、と探してみると、ほかでもない私の問題でした。私はかつて、自分は怒るときがあるが、実際は胸にあふれる慈悲を持って、他人のために考えていると感じていました。しかし、私が意識しないといけなかったのは、私はいつもとても速く気落ちして、心の中で他人に不平をこぼし、私は怒り、私は逃げようとし、パソコンをシャットダウンしようとし、同修の間で互いに助けることがあまりにも少なく、信じることができないと思っていました。私は同修がどれほどのことをどれほどうまく、どれほどまじめにこなしたかをまったく見ませんでした。私はただ同修の欠点だけを見ていました。したがって、私の身体はとても重くなりました。これは良い修煉状態ではありません。
私は認識できました。私が毎日いつものとおり編集の仕事をするとき、とても速く平静な心境を失い、他人の考えと私の他人に対する考え方に左右され、私は感情的になり、長い間続いた力を失う状態は、私が法に中におらず、したがって私が人間の階層で転んだということです。まるで小さい石につまずいて、つまずいた人はほとんど気づいていないのと同じでした。
問題はすべて私のほうに、私の他人に対する観念にありました。もちろん、私の一部の考え方は正しかったのです。もちろん、他人は確かに過ちを犯し、やり方が間違っていました。しかし、私は善の心で対処せず、慈悲をもって対応しませんでした。私がこの問題を認識でき、後ろへ一歩下がったとき、他人の問題はただ他人の問題であって、私の問題ではなくなりました。私は平和で、慈悲な心理状態を保つことがでました。私は全く異なる解決方法を探すことができ、あるいは私はよりよく他人を助けることができるようになり、心の中にはいらいらする感覚がなくなり、また私は他人からより多くの助けをもらうことができました。
私は、自分がこの全体にマイナスな影響をもたらしたことをとても遺憾に思っています。今はとても小さく考える考え方が変わったため、私は平和な心理状態で編集部で発生することに対応することができるようになりました。
この決定的な一歩は私にとって、ひとつのプレゼントのようなもので、私はそれを再び失いたくありません。当然ながら、現在私の感覚はさらに良くなり、私の周りの人も同じように感じています。私は編集部の仕事の中で執着心が発見でき、また私生活と仕事生活にも反映されています。私が心の中で自分にまだこれほど、あれほど多くの仕事が残っている、これほど多くやらないといけない、他人はいかにやったなどなどの不平をこぼさなくなった時、他人も人を楽しくさせるようになり、私は身体の重い感覚が気楽な状態に変わりました。
私は、現在この修煉の機会について理解でき、この問題において再び転びたくはありません。
尊敬なる師父、ありがとうございます。
(2008年12月ドイツ法会での発表原稿)
2009年6月18日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/1/30/194513.html)
明慧ネット:jp.minghui.org
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