■日本明慧 http://jp.minghui.org/2009/06/21/mh224481.html 



正念をもって神韻に協力し、慈悲をもって衆生を救い済度する(一)

文/ニューヨークの大法弟子

(明慧日本)

  尊敬する師父こんにちは! 皆さんこんにちは !

  神韻が2006年に世界巡回公演をスタートさせて以来、各地の大法弟子が各方面において協力や協調があったからこそ、衆生済度の効果を最大限に発揮することが出来ました。私が本日の交流会で発表するのは、神韻公演期間中の警備についての体得です。

  初めの頃は、私の理解では公演がスムーズに行えるように、舞台裏の安全を確保すること、道具を無くさないように管理すること、公演の最中に観客に写真を撮らせないことなどでした。あまり多くのことを考えず、警備の重要性と意義を理解していませんでした。だから、他の担当に替わるチャンスを窺い、時には警備を忘れて公演を見ていました。警備の回数が増えるに連れ、この警備の仕事は自分を浄化する過程であると悟るようになり、毎回の公演が非常に重要であり、各方面において皆さんの協力がよく出来さえすれば、多くの衆生が救い済度されるのです。

  最初は警備担当者に対して、早めに会場に到着すること、座席を熟知し覚えること、自分が警備する場所から離れないこと、観客の面倒を良く見ること、公演を見てはならないこと等を要求し、ただ任務を果たせばそれでよいとの考えで、修煉者として皆さんと法の上で交流しなかったのです。問題が起きたとき初めて正念を発することを思い出し、その心は不純で問題解決を求めており、その正念も効き目が無かったのです。去年の神韻公演に際して自分の不足を認識し、更に神韻の公演を通してより多くの衆生を済度する重要性についても認識するようになりました。

  警備を担当する同修と交流し、公演が始まる前にみなで『論語』を暗唱し、正念を発し、神韻の小弟子と同じように輪になって円陣を組み、声高らかに「師父に随って法を正し、衆生を救い済度する」と唱和し、心を一つにしたのです。これが私達の心の底から発する願いであり、大法弟子として先史に誓った約束を果たすときでもあると思いました。

  警備という仕事は劇場に道具を搬入し始めてから、公演終了後に人が居なくなり、会場の検査を済ませた後やっと帰れます。公演中は舞台裏の警備がとても重要で、道具が一つでもなくなると公演に支障をきたします。以前は人心が先立ち、厳しくいうと人を傷つけてしまうのではないかという恐れる心があり、舞台裏への出入りをあまり厳しく制限していませんでした。ですから、公演にかかわりの無い同修が舞台裏に来ては見物し団員の動きを邪魔していました。

  この事を通して舞台裏の管理の重要性をより深く理解するようになり、団員への妨害を最小限に止めるため、舞台裏への出入りを厳しくしたのです。こうすると同修の機嫌を損なうことは分かっていました。しかし、機嫌を損なうのは人間の表の一面であり、他の空間にいる主元神はきっと理解してくれると分かっていました。それから相手を注意するときは闘争心があってはならないということも気が付きました。

  毎回の公演は戦いのようであり、しかも人々を救うための正義の戦いであると悟りました。慈悲なる師父が芸術という方式を用いて人々を済度されるのですから、私達は師父の弟子として全身全霊で協力しなければなりません。そして、団員達の苦しい訓練を見ました。同修達が苦労してチケットを販売しながら開演へ向けての準備も見てきました。公演をスムーズに完璧に行わせることがすなわち皆へのご褒美であり、衆生を救い済度する最高の効果を得られるのです。

  会場内で警備を担当する同修にとって、全神経を観客に集中させ舞台の公演を見ないというのは並大抵のことではないと思います。以前の私は無線を通して「舞台を見るな、観客を見なさい」とよく指示していました。でもあまり聞いてくれなかったように感じました。何故かと言いますと今になってやっと分かったのですが、自分でさえ神韻の重要性を認識できず、何時もこの仕事をしなければ、客席に座り落ち着いて最初から最後まで見ることが出来るのにと考えていて、そんな考えでは他人に指示しても聞いてくれるはずがあるでしょうか?

  神韻の初公演の時、観客が写真を撮っていいかどうかについて、師父に伺ったことがありました。師父は「絶対に撮らせてはならない」と言われました。私はそのときから師父の指示に従って厳格に取り締まることに決めました。しかし、師父の言葉を理解したのは表面の意味であり、奥義を理解できませんでした。その状態は去年師父の神韻に関する説法を聞くまで続いていました。師父の説法を聴いた後初めて奥義を理解したのです。写真を撮らせないのは周りの観客に集中させて公演を見せるのが目的で、その本人も集中させるためであったのです。そうすれば観客が初めて救い済度されるということでした。勿論、中には特別な目的で来ている人もいました。

  以前に写真を撮っていた観客を見つけたときは、心の中では達成感をもちはじめ、実績を積んだ満足感もありました。見つけられた人の中に色んな性格の人がいました。事後皆が自慢そうにその人のことについて話していました。皆が認識できなかったのですが、それは顕示心、闘争心の現われであり、その後の公演に写真を撮る観客が続出したのです。写真を撮る人が増えるのを喜んでいて、ここに立っていてよかったと満足していました。

  しばらくしてから悟ったのですが、写真を撮る人が現われないのが私達の目標であり、皆が心を一つにして協調し、強大な正念があれば必ず達成できると思いました。警備について私の印象に強く残ったのは、今年のワシントンDCでの超一流の劇場での出来ごとでした。その劇場には多くの個室があり大統領専用の個室もありました。ですから劇場側は私達に対する使用条件を厳しく要求してきたのです。まず、劇場内に私達警備員を配置してはならない、劇場内では観客と接触をしてはならないなどと言われました。

  劇場の要求について公演が始まる前、DCの学習者と個別に交流し、又はグループ交流もしました。そして、DCの学習者は劇場側と交渉し私達の希望に添うような働きかけをしました。しかし、聞き入れてもらえなかったのです。仕方なく私達の警備員を客席に座らせることにしました。このやり方では私には自信がなく、立って警備していたときでも公演を見たいのに、座らせてもらえるとそれこそ自分の希望が叶えられると思いました。それから座っていれば回りの観客を何人まで見てとれるのかと不安になり、今回の警備はDCの学習者に任そう、自分は視て見ぬ振りすればよいと思い始め、逃避しようとしたのです。そこでこのような常人の考えが現われてきたときは、それを正すために幾ら私が愚かものでも学法が大切だということぐらいは知っていました。

  初公演の観客は招待を受けたVIPだけだったのです。私は警備担当の同修に精神力を集中するよう念を押し、自分には落ち着くように言い聞かせました。そして、今日はここに集まるのは上層社会のエリート達で、しかも招待されたVIPだから、皆さんは礼儀を知っていて、プライドもある、看板やアナウンスもあるので写真を撮ることは無いと安心しきっていました。ところで公演が始まると一流の個室で鑑賞していた身なりの高そうな服を着ていた年配者が、率先して写真を撮り始めたではありませんか、一階の中心部あたりで酔っぱらった将校がパチパチと写真を撮り続けていました。そのときの私は恐怖心で散々でした。公演終了後にすべての人にカメラに収めていた写真を目の前で消去してもらいましたが、その場面は悲惨なものでした。

  事後、同修達はこのことについて交流しました。私たちは劇場の要求に従わなければならないが、常人のやり方に依頼してはならないと認識しました。修煉者として最も効果的な方法は正念を持つことです。その後私達は正念を発することを重視し、『論語』を暗唱し終えてから、公演が終了までずっと正念を発する状態を保っていました。もう一つはこの劇場に居るすべての大法弟子が一体であること、皆が一体として協調出来れば、衆生を救い済度する効果がよりよいものになるのです。

  正念を発することについて同修達と交流しました。正念を発する際、公演を妨害するすべての要素を取り除くこと、もし、ステージの上、又は楽団に誰かのミスが生じたとき、そのミスはその人の問題ではなく、皆の強調に漏れがあったからこそ、ミスが起きたと認識しなければなりません。そして、皆に注意したのは、公演中に起きたミスや不足を議論してはならず、議論すると良くない物質にエネルギーを与えたことになり、そのような念が浮かんだたけで正念をもって取り除かなければなりません。その後の数回の公演で皆が黙々と協調し合い、お互いに正念を保つよう注意しました。そのためこの世界一流の劇場で2千人以上の神韻の席が売り切れただけでなく、立見席までも売り切れたのです。そして、写真を撮る観客が現われず、全体の協調と正念の力を体感したのです。

 (続く)

 (2009年ニューヨーク法会での発表原稿)

  2009年6月21日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/6/10/202489.html

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