正念をもって神韻に協力し、慈悲をもって衆生を救い済度する(ニ) 文/ニューヨークの大法弟子
(明慧日本)それぞれの劇場にはそれぞれの使用条件があり、中には不可解な条件を付ける劇場もありました。ですから、私達がなすべきことを達成するためには、多くのときは理知を持たなければなりません。そして、強い意志と正念をもっていれば、師父が手助けしてくださいますので、私達がやりたいことを成し遂げられるのです。実は劇場のスタッフは私達の行動を見ていて、私達が責任を持って真面目に仕事をすれば、彼らもつられて真面目に仕事をせざる得なくなります。ほとんどの劇場は公演中に写真を撮ってはならないという決まりがありますが、しかし、4〜5人のスタッフは公演が始まると鑑賞し始め、写真を撮る人が現われても無視しました。私達が写真を撮る人、子供の泣き声、障害者の叫び声に対し厳粛に対処した態度を見て、次の公演からは劇場のスタッフも明らかな変化が見られたのです。私が同修によく言っていたのは、このようなことを処理するときは、穏やかな態度で、笑顔で話し、心の中では強い意志と正念をもって対処なければなりません。
ニューヨークの一流劇場での公演でした。公演が終わりに近づくと前列の真ん中あたりの観客はプロが使用するようなカメラで写真を撮り始め、多分かなりの枚数を撮っていたようでした。私はその人の確かな位置を定め、無線で劇場のスタッフに知らせました。劇場のスタッフは公演が終わってから一緒にカメラに収めた写真を消去させましようと約束してくれました。しかし、写真を撮っていた人を拘束したときに、意外なことに3人のスタッフが私を囲み、トラブルを避けるためその人の傍に近寄せないのです。3人に囲まれた中で正念を発し、警備する同修にその人から目を離さないよう指示しながら、その人に写真を削除するよう要求しました。
心の中では、もし逃げられた場合は街まで追っかけでもその写真を削除してもらおうと思いました。その人は驚いたようでその場に立ち竦み動かず、カメラを服の中に隠そうとしました。このようにして数分間が経ち、最初はスタッフがその人に早くこの場から立ち去るようにと促しましたが、今度は叱り始め、しまいには写真を削除しなければ帰れないとまで言い出したのです。そして、私達の目の前で写真を削除しようとしたとき、以前に撮った写真まで削除されたのです。彼の慌てていた様子を見て人を騙しているように見えず、私はそれでも安心できず、彼に「保存カードを換えたでしよう」と問い詰めました。
彼は「そんなことはしていません」と言いました。「神に誓いますか?」と聞くと、彼は右手を挙げ「 神に誓います」言いました。そこで、私は初めて師父が写真を消去してくださったことが分かりました。以前にもこのようなことがありました。観客が使い捨てのカメラで神韻の写真を撮りました。その中に別なところで撮った写真も収められていました。このような場合は観客からカメラを預かり、相手の住所を聞き現像した後、以前に撮った写真を送り返すと約束していました。しかし、現像したとき収めていた写真は綺麗に消されていたのです。
私は修煉の中で、ますます師父の慈悲な広大さが体験することが出来ました。師父は1人の衆生も残さないようにあらゆる手段を用いて衆生を救い済度しておられます。神韻の警備の仕事の中で、安易に何かしてはならないと思いました。なぜならば、劇場に勤めている人、写真を撮っていた人、私達と接触しているすべての人が済度されるべき生命であり、慈悲をもって接しなければなりません。同修達の交流では観客の鑑賞を邪魔するような行為は、観客の鑑賞集中力を保つために、特別な場合を除いて出来るだけプログラムを紹介している間か、或いは中休みのときに対処すると決めました。そして、必ず相手がどのようなものを持っているのかを良く見分けること、例えば、観客の中に携帯で時間を確認したり、メールを送信したり、ゲームをしたり、照明の代わりに使ってプログラムを見たりしている場合があります。しかも今では色んな電子機器があり、頭にかけるもの、耳にかけるもの、手に持つもの・・・すべてが光るのです。一つ間違えば不必要な誤解を生じ、観客を不愉快な気分にさせてしまう恐れがあります。そして、無線を使いすぎると同修が正念を発するのを邪魔することになります。
ニューヨークでの公演の最中に前列あたりにある人がビデオを撮っていたように見え、モニターのようなものを頭上に上げたまま光っていて、後列の鑑賞を邪魔していました。劇場が大きすぎたため、警備がそこまで行くと他の観客を妨害することになり、警備の同修に違った角度から確認させ、他の観客に影響を与えない程度にその人に近づいて確認した結果、大袈裟にしなくてよかったのです。光っていたのはモニターではなく禿げていた人の頭だったのです。バックスクリーンの光が禿げた頭に照射し、その反射で光っていたのでした。
神韻がある街で公演していたとき、その劇場は私達に対して多くの要求をしてきました。それを聞いた私は思わず笑ってしまいました。彼らの手順で行きますと、写真を撮った人を止めさせるのに、管理者3人と現場責任者の1人の許可が必要だと言うのです。そうすれば時既に遅く、何が出来るでしょうか?こんな田舎の劇場で面倒くさいことを言うなと常人の観念で考えてしまい、警備の同修に「構わないからやりたいようにやればいい」と伝えました。更に「人間の言うことは聞かなくでもよい」と法に適さない言葉を付け加えたのです。全く善の一面が欠けていました。結果として1回目の公演が終了後劇場側は私達に多くのクレームを言いました。
そのクレームを聞いた私は無視しようと思い始めましたが、落ち着いて考えてみると、劇場の人は私達を神韻と同じグループだと見ていることでしょう!もし私達の行いがよく出来なければ、神韻の評判まで影響してしまいます。しかも劇場のスタッフも救い済度される対象であり、だからこそ善をもって接しなければなりません。彼らの言うとおりにすれば手間が掛かるかもしれませんが、そうだからと言って彼らによくない印象を与えてはなりません。翌日公演が始まる前、劇場の責任者と会議を開き、まず、迷惑をおかけしたことを陳謝し、今日から劇場の要求通りに警備を進め、劇場にも協力してほしいと言いました。それから警備の同修にもこのことを伝えました。公演が終了後劇場の責任者が私に握手を求め、大変に満足していること、機会があれば是非ともまた利用してほしいと話したのです。
神韻の警備をしている過程で、自我を放下することによって、より良く衆生を救い済度できるのです。私の性格では人を褒めたり、人に何かお願いしたりすることは凄く嫌だったのです。このような心も捨てなければなりません。なぜならば、写真を削除させるとき、子供の泣き声を止めさせるとき、劇場に協力してもらうときなどは相手の機嫌をとらなければならないからです。ある時撮った写真を削除してもらうのに、80歳過ぎのお婆ちゃんと数十分も雑談していました。それから私に一番印象残ったのは西洋人の年配者の夫婦でした。撮ったフイルムが没収されたため、夫人のプライドが傷つけられ、機嫌を悪くして公演の途中で帰宅しようとしました。そこで私が思ったのは、このまま帰宅させれば済度されるチャンスを失ってしまうので、劇場に留まるよう説得することにしました。夫人に今の出来ごとを謝ったのです。劇場のスタッフは私の行動が理解できないといい、悪いのは相手なのに何故謝るのだといいました。
私はただ公演の鑑賞を続けてもらい済度されてほしいから相手に謝り、山ほどの褒め言葉をかけました。そのお陰で夫人は席に戻ったのです。一息入れると、闘争心と虚栄心が湧いて、それは執着心だと言うことを適時に認識したため、その執着心を取り除くことが出来ました。このことを処理するにあたり、何か足りなかったことは無いかと内に向けて探しました。事前に事の発生を予防する方法があったのでは、相手と話していたとき優しさが足りなかったのではないかと反省しました。
ニューヨークとニュージャージーの十数人の同修が私と一緒に警備の仕事を担当してきました。お互いに良く協力し合ってきました。警備についての重要性も共通の認識をもっていました。同修達は神韻の巡回公演がスタートする前から家族の生活や休暇について、適切な按排をしてきました。しかし、中には公演を見たいので休ませてほしいという同修がいました。私はこのことについて理解できませんでした。家族の人が常人ならばまだ理解できるのですが、その人の家族も修煉者なのに彼女とデートするために神韻を鑑賞するというのです。話を聞いた私は「この人は何が重要で何か重要でないかが分かっていない」また、「今、彼女を作る場合じゃないでしよう! 何を考えているのだ!」 と思ってしまいました。事後考えて見ますとその考えは善に基づいていないこと、他人の立場に立って物事を考えていないこと、その考えの中に少なからぬ嫉妬心が含まれていたことが分かりました。
ある時、ある同修が公演の前日に警備を休ませてほしいと別の同修に告げました。その理由は言わなかったようでした。そのことを聞いた私は不満になり、その同修に沢山の罪状を準備して電話を掛けました。何回掛けてもその同修は電話に出ないのです。落ち着いて考えてみると同修は電話を取ってくれなかったのが幸いなことでした。でなければ白く輝く徳がその同修に一杯飛んで行ったことでしょう。怒りが静まってから何故不満になったのかよくよく考えて見ますと、自分の人間としての一面が誘発され、それで判断したから不満になったわけです。幾ら大事なこととはいえ善のないままに相手に強制してはならず、その同修は何か用事があったのかもしれません、疲れていて休みたいのかもしれません、そうであれば休んでも当たり前なことではないかと思うようになりました。
翌日その同修が神韻を鑑賞しているところを見かけ、私は不満不平の心がなく、たた申し訳ない気持ちで一杯でした。恐らく何時もの私は善が足りないため、その同修は私を恐れ、神韻を鑑賞したいだけなのに他の同修に言ったと思いました。公演が終了後私は自らその同修に駆け寄り「 今日さぼったことは許してあげる、もう2回目は無いよ」とジョークをとばし、同修は「 二度目のさぼりは無いと思います」 と笑顔で話してくれました。
昨年の暮れから、神韻の三大芸術団と二つの楽団が世界で巡回公演を始め、世界各地から警備の不備で、写真を撮られ、ビデオを撮影され、舞台裏に入られ、ひいては道具を盗まれたなどの話をよく耳にしました。私は落ち着いていられませんでした。確かに人手が足りないために警備が薄くなりましたが、私達の心性は必ず所定の位置に達しなければなりません。人手が少ないからこそ、皆さんはより協調しあい、より正念を強く持たなければなりません。意識もはっきりとしなければなりません。実はそれぞれの同修は皆警備員であり、法を守る責任があるのです。だからこそ公演が妨害されず、最高の状態で公演ができる環境を整えてこそ、衆生済度の効果を高めることが出来るのです、
今年の神韻の巡回公演では幸いなことに30公演以上の警備を担当してきました。この警備の過程は私を昇華させてくれる過程であり、自分を浄化する過程でもありました。同修達は全体の協調が良く出来、正念が満ちていたことに感銘し、公演の警備中に師父が幾度も灌頂してくださったことに感銘し、劇場のスタッフが態度を変え、再び公演を希望されたことに感銘し、衆生が済度され、起立して団員に長時間の感謝の拍手を送り、劇場から立ち去ろうとしないことに感銘した等などの感激の場面が私を励ましてくれました。今後大法弟子としての称号に恥じないように、もっとより良く警備を出来るように、もっとより良く出来るよう精進したいのです。
師父に感謝いたします! 皆さんに感謝いたします!
(2009年ニューヨーク法会での発表原稿)
2009年6月22日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/6/10/202489.html)
明慧ネット:jp.minghui.org
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