日本明慧
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一つの全体として協調することは、全ての弟子の責任


文/シンガポールの大法弟子

(明慧日本)私たちが一つの全体になって協調したときのエネルギーは法を実証し、衆生を救い済度する作用がとても大きいということを知っています。それぞれの地域の同修も強固に纏った一つの全体になりたいと思っています。しかし、私たちの地域では、いつも一部の同修から「私たちの佛学会がどうのこうの、ある同修がどうのこうの」という不平を聞きます。ですから私たちの地域は全体が一つになることは難しいのです。全体が一つになりたいと思うのですが、周りの環境でどうにも仕様がないと思うのです。全体が一つになることには、皆に責任があり、私たちの普段の一念一考、一言、一つの行動(身、口、意)は全ての全体が一つになることの形成に影響しているのです。

 師父は『転法輪』で「思想の世界では、従来から物質が第一か、それとも精神が第一かという問題があり、常に議論され論戦されていますが、実際は物質と精神は同一のものです」と、説かれました。

 以上を私は次のように悟りました。他の同修の一念一考に対して、相対する物質(プラス面とマイナス面の)が形成されています。たとえば、法を実証するテーマ〈プロジェクト)に対する理解が異なるので、よく理解している同修は大きな包容力がありますが、理解できなかった同修も園容と正念をもって支持すべきです。どんな方面にもマイナスの考えがあってはならないのです。さもなければよくない物質が生成され、法を実証することに不要な障害が生じます。

  真相を知らない常人に対して、私たちはその人が救われるために熱心に忠告するのですが、法をたくさん実証し、衆生を救い済度するために懸命に頑張っている周りの同修に対しては、あるときなぜかとても冷たくなり、排斥する様な場面があるのではないでしょうか? ある同修がこう言ったのを覚えています。その同修は毎回他の同修とトラブルになった時、いつもその同修が衆生を救い済度するのを見ると、同修とのトラブルも解消し、もっと同修を園容する素晴しい気持ちが現れるというのです。私たちがみなこのようにできたら、全体一体(の状態)が一段と良くなると思います。

  全体が一つになるという事に対しては、私たち修煉者は口を修めるという問題がありますので、師父が言われたように、「われわれが口を開いてものを言うときには、煉功者の心性に基づいていうので、人と人との間の和を損なうようなことを言わないし、良くないことを言わないのです。修煉者として法の基準に基づいて、自分自身がそれを言うべきかどうかを判断するのです」(『転法輪』) ある出来事での同修について話すとき、私たちはごたごたが起きるように仕向け、よくない話をしているのではないでしょうか? もしこのような話し方が全体の協調に対して不利になるのなら、私たちは口を修めるということに気をつけたいと思います。

 ですから、私たちは一つの全体を形成して、他人を見る時には、私たちは一体を形成するにあたってプラスの作用を働いているかどうかを見るべきで、自分の一考、一念、一言、一つの行動を見るべきです。なぜなら全体はあなたと私だけではないからです。もし皆が自分の思考と言行に(慎重に)重視し始めれば、全体が一つになった大法弟子のエネルギー場はもっとも強くなり、たくさんの衆生を救い済度することができるに違いありません。

  個人の悟りに限界があり、間違っているところは慈悲なる指摘をお願いします。

  2009年6月24日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/6/19/202980.html