日本明慧
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内に向けて探す 全ての執着は私心から


文/河北省の大法弟子

(明慧日本)私は1996年に修煉を始めた古い大法弟子です。12年の風雨の中の修煉の過程で、言い尽くせぬ苦しみをなめながら今日まで辿り着くのは、本当に容易なことではありませんでした。

  修煉の過程は言葉では言い表し難いものですが、この12年の中で、自分をより早く昇華させない根本的な制約は、千百年来、自身の中で形成してきた常人のこの殻、およびミクロの中に隠れている「私心」であることを深く悟りました。その「私心」はその他の空間の中で私の分子細胞で構成されたこの肉身をしっかりとくるんでおり、確実に昇華させないものでした。

  私には様々な執着が多すぎるため、修煉の中で難関は随時随所にいずれもやって来て、ある時にはとても理性的に、ある時には理性がなくまったく常人のようで、完全に自分を修煉者と見なすことなく、魔性がひどく大きくなってしまいました。関門を乗り越えて心を鎮めてから改めて考える時、難関の中での昇華はとても玄妙なものでした。私は常に法にはできないものはない超常的な智慧と無辺の法力が存在することを悟りました。実際上難関は昇華し高める絶好のチャンスであり、どうしてまた外へ押して、外へ向けて探すのでしょうか? これはよい事ではありませんか? 業力が消えてなくなり、心性も向上し、功も伸びてきて、修煉者にとっては良い事なのではありませんか! しかしながら、私は修煉する中で、心性の関門を乗り越える時、あるいは同修との対立が発生した時、個人の利益に触れた時、すぐに自己のこの「私心」を守って、心がアンバランスになるのです。

  ここで、一つのとても小さな心性の関門の例を挙げます。ある日、あるものを受け取りに同修の家に行った時、玄関に入ったとたん、話がまだ始まらないうちに同修に追い払われてしまいました(その時同修の家で何事かが発生)。その家を出てから私はカンカンになって怒ってしまいました。私は心の中でもう二度と来るものかと思いました。私のこのような態度は何に基づいているのでしょうか? 二度とこのようなことはしてはならず、それは人を軽蔑していることなのです。

  数日後、もう一人の同修の家でまた彼女と出くわしました。私は自発的に彼女たちと挨拶を交わし、彼女にこの間のことは気にしないようにと言おうとしました。しかし彼女はそのことに触れないだけでなく、私に向って謝ることもせず、しかも話す時、まともに私を見ませんでした。それは私の心を揺り動かし、私の取り除かなければならない不潔で歪んだ考えを触発しました。その時の心の中はとてもアンバランスでした。内に向けて探すことにより、これらは旧勢力と旧宇宙の変異したものが私の大脳に反映したものの現れだと悟りました。それは、卑劣な闘争心と嫉妬心であり、根本を探し当てることができました。それ以来、私は毎日法を学ぶ中で、大法の幾重にも重なり合った法理が絶えず脳裏に浮かび、そして同時に、思想の中の幾重にも重なった良くないものを解体し、歪んだ思想と観念を正しています。私は師父の弟子に対する洪大な佛恩と慈悲に浴しています!

  その時、私の心はパッと開いて、同修に対する恨みが消えてなくなり、取って代わったのは安らぎと寛容でした。その上内心から、大法が私にもたらした同修との縁を大切にし、更に師父が私たちに与えてくださった宝---内に向けて探す---にも感謝いたします。この時私は内に向けて探すことの重要性を悟りました。ひたすら真に内に向けて探すことにより、初めて自分個人の殻から抜け出すことが可能になります。

  今すでに時間がとても貴重になり、この瞬間に消え去る重要な瀬戸際にいて、私には、まだまだ多くの修めなければならないことがあり、いっそう努力して、自身の全ての歪んだものを法の中で正し、そして衆生を救い済度し、この上なく素晴らしい家へと戻っていきます。

  2009年7月1日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/6/28/203572.html