日本明慧
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内に向けて探す体得

(明慧日本)半年来、ずっと私を困惑させるいくつかの事がありました。元々私とあまり関係のないことでしたが、しかし衝撃を受けた相手は矛盾をすべて私に向け、他の人が私のために釈明しても、私自身がいくら釈明しても無駄でした。最近また同じような事に出遭いました。こんな大きな矛盾はきっと自分に問題があるに違いありません。しかし問題はどこにあるのでしょう?

  偶然の機会に、私は1人の同修に心の中の困惑を話して交流する中で、邪悪の要素の妨害に言及することによって、私は少し悟ったような気がしました。家に帰る途中、私は内に向けて探し当てることに少し目処がついたと感じました。

  私は、矛盾に出遭った時、まず自分が間違っているかどうか、あるいは自分にどんな心があり、この事での自分の損得を考えることは、私心の上で内に向けて探し当てることだと発見しました。矛盾が来た時、もしこの事が大法、大法弟子の全体、あるいは傷つけられた同修に損失を持たせないように考慮し、発正念で邪悪の妨害と手配を全面的に否定して、内に向けて探し、邪悪の要素が自分のどんな歪んだ思想の隙に乗じたのかをはっきり見極めれば、出発点をきちんと正すことができるはずです。

  数年来、自分の内に向けて探すことの出発点は、全て自分個人のためであって、まったく大法を守り、大法弟子全体のためではありませんでした。そのままではとても危険だと思います。以前は邪悪に迫害され、自分が普段は内に向けて探しているにもかかわらず、どうしてまた迫害に遭ったのかとても困惑しました。事実上、正しい出発点で内に向けて探し当てる時、邪悪はどうにもならないのです。去年巨大な対立の中で、私は大法を守り、大法弟子全体を守る出発点から内に向けて探し、それらの根も葉もないうわさに対して、修煉者の寛容で応対し、とうとうその他の空間の邪悪が私に手を付けようとした陰謀を打ち破りました。その時私を悟らせたのは、『オーストラリアの学習者に法を説く』の録画でした。 

  このようにして、私は、事の大小にかかわらず、内に向けて探し当てる時出発点を正すことによって初めて慈悲心で同修に応対することができることがはっきりと分かりました。出発点が歪む時、慈悲心はなく、往々にして不満の気持がいっぱいになりがちです。

  内に向けて探し当てる出発点をはっきりして、自分の原因を探し当てるとき、根本的な矛盾は全て自分の思想上の一念とかかわっていることを発見しました。はっきり言えば、矛盾は全て自分の心の歪みから来ていて、思想の中で同修に対する観念が、肝要なときに邪悪に隙に乗じられる原因であって、同修の人心を利用して、自分は魔難に遭い、大法は損失を受け、全体が影響を受けました。とても際立っている同修の例で言うと、邪悪は彼女に対して仮相を作り出し、私は全て自分に向かってきたような気がして、それは影響を受けたのはいつも彼女ではなく私なので、とても怪しいと思ったのです。今分かったのは、これらは全て自分の心の歪みで、修煉者としての正念で問題に対処できないことがもたらしたのです。私は今大法弟子の清浄な心理状態、観念を持たず、常に慈悲心を持つことの大切さを感じるようになりました。

  私はやっと、他の人が間違いだと思うとき、事実上自分の根本的な問題を探し当てていないからだと分かりました。本当に自分の問題を探し当てる時、決して他の人に対して不満を持たないので、あるのはひたすら自分が捨てきれない心を修め、同修に対する慈悲心だけです。

  以上は個人の悟りで、ご指摘のほどよろしくお願いします。

  2009年7月3日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/6/30/203684.html