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出家して23年、神韻公演を観て新しい人生が始まる(二)

(明慧日本)

 はじめて神韻を鑑賞し、心身ともに最高境地に溶け込む

  神韻の話となると、彼女は感無量で「私は毎回の神韻公演を追いかけました。それは神韻の根源を探るためでした。1回目に公演を見たとき、神韻が決して人間社会の作品ではなく、人間には作れないものであるとわかったからでした」

 「信じられないことでした。最初に見たとき私は呼吸が止まりそうでした。舞台の上と下の協調性、私は完全にその中に吸い込まれました。想像もできないことでしたが、その公演は私の心身を最高の境地に溶け込ませたのでした」

  「私は出家して23年になりますが、修行の面においてもかなり工夫をしてきました。しかし、神韻の1回の公演で、たった3時間の公演が、私を最高の境地にまで導いたのでした。私の修行人生の中で、こんなにすばらしい境地に達したことはなく、本当に法を得た喜びでした。私はまるで禅定の中で神韻の境地に入っており、それ以降心身から多くのものが脱落しました。神韻は私の心全部を溶かしてくれました。その公演中、涙が最初から最後まで止まりませんでした。なんと私は、私の一生の中で想像もできなかった、こんなにすばらしい創作に出会えたのです」

  「これらのダンサーの境地は非常に高く、もし彼らの修煉、境地がそんなに高い程度に達していなかったとしたら、彼らの身体の表現力、あの柔軟さ、あの無の状態に達することはできないでしょう。あのような情景は・・・私が思うには、彼らが踊っているのではなく、佛の法身が踊っていたのでしょう。人間のものをまるで感じることができなかったからです。それでは、背後のその佛の法身は一体誰なのか? 私はそれを知りたいために、すべてを惜しまず、すべてを放棄し、神韻を追いかけ、毎回一番高いチケットを購入しました。神韻の最高の全景を感受したかったからでした」 

 神韻がきっかけで「師父」にめぐり合う 

 出家して23年になる法伝さんは、神韻の震撼を経験して、自らの修煉の道を見直すことになった。「神韻はあらゆる言葉を持ってしても表現することができません。絶対、生き仏が演技をし、世に伝えており、菩薩が衆生を済度しているのです。だからこそ、私は23年間培ってきたすべてを捨て、一からやり直す決心をしました。しかし、その背後に、あまりにも多くの宗教の要素や思想業力などがあったため、私の心は葛藤しました。心身の戦いは昼夜を問わず続き、

 生死の狭間で苦しみました。だから私は法輪大法を修煉するには厳粛で厳かな心がけが必要であることに気がつきました。以前とは全く違う心持でした」

 法輪功の修煉を始め、法伝さんの感受は言葉にできないほどのものだった。「最初に法輪功が偉大で神聖な大法であることを体験したのは、5式の功法からでした。当時、私は動作ビデオをみながら、まだ1回しか習ってなくて、動作もまだ基準に達しておらず、ただ真似をする程度でしたが、それでも全身は言葉にできないくらい良い気持ちになりました。それで体得したのですが、この功法の中にはさらに玄妙な『機』が隠れているのです。文字ではなく玄妙な『機』が隠れているのです」

 「それから学び始めたのですが、何回か煉功してみると非常に良いのです。功の中に、あまりにも多くの玄妙な『機』があり、言葉では表現できませんが、

 煉功が終わると自分の多くの執着を脱落させることができました。私は神韻が全く新しい希望を与えてくれたことに感謝します。そして最も重要なことはやはり『師父』に巡り会えたことです。それまでの私は、在家の師父がいらっしゃることなど全く知りませんでした。高徳の師父を探すために、ヒマラヤ、五台山、アルプス、峨眉山などすべて訪れましたが、在家の師父がいらっしゃるとは思いもよりませんでした。仏教の見地から見ると特殊で、仏教に(そのような師)は存在しないのです」

 (続く)

  2009年7月4日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/6/21/203168.html