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師父と大法を敬うことは大法弟子の基本である


文/山東省徳州の大法弟子

(明慧日本)本当に師父と大法を敬うことがきちんとできることは、修煉の向上する過程であると思います。法を得た最初の頃、まだ大法の神性さと荘厳さを悟れず、意識もせずに大切な大法書籍を散らかしたり、転がって本を読んだりしていました。だんだん深く修煉し、レベルも向上すればするほど、大法に対することも感覚的認識から理性的認識へと変わりました。また、迫害されている中で大法が現した厳しさと超常的な現象によって、私たちはさらに師父と大法を敬い、師父と大法が弟子に下さったすべてに報いきれないことを深く実感しました。

 以前、この方面の体験文章をいくつか読みました。正法がもうじき終了となる今も、昔から続けて来た修煉者でもまだ師父と大法を敬うことがきちんとできていません。集団で学法をする時に、だらしない服装をする人、靴下を履いていない人、もたれている人、椅子に座って足を組んでいる人がいて、法に専念して読んでいない人や、大声を出している人や、携帯が鳴りっぱなしの人もいました。学法に対する神聖さを現していませんでした。これは、新しく入って来た修煉者の修煉にも影響していませんか? 同修が集まって法を学ぶことは、共に向上し、きちんと法を学びたいという願望を持っています。しかし、このような態度では、大法の法理が表れるでしょうか?

 以上は指摘する気持ちで話したわけではなく、自分自身もきちんできませんでした。冷静に考えてみれば、師父は大法弟子のためにたくさん費やしてくださり、私たちは善に向かう心を持っていれば良く、香を炊くことや、口頭(こうとう)の儀式のような宗教形式も取っていません。もし師父のご加護がなければ、こんなに酷い状況の中、私たちは一緒に学法をすることができますか?  『オーストラリアの修煉者に対して法を説く』のビデオの中に、師父は立ったままで弟子に説法してくださいました。私たちが学法の時に表したあの態度と姿勢は、師父に見せられるでしょうか? さらに、中国で不法監禁されている同修のことを考えてみれば、彼らは煉功することすら警官に監視しされ、殴られます。どれほど学法をしたくても、『転法輪』も持っていません。しかし、私たちは師父が按排してくださった学法の環境を大切にすることを知りません。

 私は次のように少しだけ悟りましたが、学法の時に背を伸ばし、身体を正しくして、両足を双盤か単盤の姿勢にします。両手で本を持って、誠心誠意で、一人一段落や二段落を正しく読み、はっきり発音をし、音量と速度も適切で、できるだけ皆の意志が一致できるようにします。交流の時間もきちんと決め、法の上で交流をし、世間話は避けましょう。 

 ある日、天目が開いている同修は、「学法している時に、師父の法身と神々がいました。神々は両足を双盤して法を拝聴していました」と話しました。一回、彼女は足を崩していると、ある神は「私を踏んでいますよ」と言い、彼女はすぐ足を組みました。同修の読む速度が速くなると、神は「ゆっくり読んでください」と言いました。また、同修は「神々はひざまずいて法を拝聴しています」と言いました。これで、学法の荘厳さの大切が分かるでしょう。私たちはきちんとしなくてはいけません。

 同修よ、大法を大切にしましょう。宇宙の中の一番偉大なる大法を業力まみれの我々に伝えてくださり、我々を地獄から拾い上げ、綺麗に洗ってくださり、また神の栄光を無能の我々にくださったのであり、私たちは本当に精進するしかありません。自分、大法、衆生のために責任を持ちましょう。全体を見ながらも細かいことに配慮し、身体と精神共に師父と大法を敬い、胸を張って師父の弟子として行なえるよう、大法が創造した命に対して後悔しないよう、衆生に正法時期の大法弟子の意気込みを見せるように精進しましょう。これは私たちの基本であり、やるべきことです。

 2009年7月7日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/7/4/203938.html