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「秩序」について考える

 (明慧日本)昔の中国は、人間関係の秩序は非常に明確で厳しいものでした。孔子は「君は君たれ。臣は臣たれ、父は父たれ。子は子たれ」と言いました。その意味は、君主は君主らしく、臣下は臣下らしく、父は父らしく、子は子らしく振舞うことが重要だということです。人にはそれぞれの役目があり、それぞれの形式に従い、筋を通すことを強調しています。

 職場には、必ずリーダーが必要であり、その決議を執行者が執行するという、社会の役割が明確です。人間関係で言うと、上の者は「仁(他者に対する思いやり)」で、下の者は「忠(服従)」です。家庭では、父には「慈」、子には「孝」、兄には「友」、弟には「恭」ということです。天尊地卑(正統な権威「天・君主・祖先・両親・先輩」を敬仰する謙虚さ)の自然な状態を、家庭と社会の倫理にまで発展させ、この倫理の中から社会秩序を派生させました。「尊卑」は中国の伝統的な観念の中で最も重要な部分です。まさに『党文化の解体』が述べたように「伝統的な倫理には自然と調和した秩序ある家庭と社会を形成する働きがある」のです。

 しかし、中国共産党はこの調和した社会秩序を「人間性を否定している」とか「階級の対立」を歪ませるとか、人間の名利に対する欲望を挑発しました。最終的に社会の秩序がアンバランスになり、混乱を招きました。現在の中国は、子は親に反発し、学生は教師の指導を聞かず、部下は上司の命令に従わないなど、誰も自分が一番偉いと思い、好き勝手をし、まったく無秩序な状態になっています。

 ある外国人は、「一人の中国人は一匹の竜だが、集団になるとただの蟲だ」と中国人を評価しました。この言葉はまさに秩序を無視する党文化の影響を受けた中国人にぴったりです。今の中国人は他人に合わせることも、協調することも、基本も分からず、「権威に挑戦できること」は有能で、「上の按排に従い、全体に協調すること」を無能だと見ています。仕事を完成することを先に考えるのではなく、自分のことを優先しています。中国人は他人と調和して生活することもできず、協調して仕事をすることさえもできません。大法弟子は人間本来の状態に戻らなくてはなりません。

 師父は『二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法』で次のように述べられました。「仕事を指示されたら、それをやりたがらず、自分のやりたいことしかやらない人がおり、それぞれ勝手に動いています。それではいけません」 「なぜあの人の言うことを聞かないといけないのかと、自分の修煉が彼より良くできていると思っている人がいます。このように思ってはいけません。あなたの修煉が良くできていれば、指示に従うことができるのであって、これはまさに修煉が良くできていないことを物語っています」

 以上の法を学んで、自分の周りのことを思い付きました。同修の間の間隔や、皆で共に仕事をする時、うまくいかないのも、他人の意見を認めないからです。誰も自分のやり方が正しい、自分の意見は良いと思い、誰にも譲らず、同修と協調人にも合わせません。協調人の按排に対して、自分の角度から批判や、評価をし、積極的に合わせる事も、静かに調和することも出来ないのは、常人とまったく同じではないでしょうか? まるで結束力のない砂のようになりました。長い間合わせられない時もありましたが、このような状態ではどこに邪悪を消滅する巨大な威力があると言うのでしょうか?

 私たちの修煉は自分を修めることですが、誰も真相を伝えることをたくさんやっているので、仕事をする上で協調することが大事で、全体的に意識しなくてはなりません。これは秩序の問題です。誰も自分の位置を正しく認識しなければなりません。どの地域にも協調人がいます。全体にとって協調人はリーダーです。もしリーダーが大法のために、決定を下せば、誰も条件なく強調するしかありません。もしこの決定に不足の部分があれば、消極的に対応せず、過程の中で不足をうまく調和します。真相を伝えること、衆生を救い済度することを真っ先に考えるのが、まさに大法弟子なのです。

 修煉は常人の中で良い人になることから始め、もっと良い人、常人を超える人に修めていきます。恥ずかしながら、改めて考えれば、師父は本当に一つ一つゆっくりと私たちの修煉を指導し、人間の基本を教えてくださいました。しかも、我々は「社会秩序を守る」ことさえ、師父に何度も何度も教えていただきました。もしまだきちんとできなければ、本当に最悪です。個人の認識ですので、もし不足なところがありましたら、慈悲なるご指摘をお願いします。

 2009年7月15日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/7/10/204265.html