日本明慧
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心理状態が純正になって初めて衆生を救い濟度することができる


文/黒龍江省の農村の大法弟子

(明慧日本)法を正す道程の最後の時にいたって、依然として『明慧週刊』の中で多くの同修が言及したように、配布した真相資料が悪人あるいは邪悪に操られた人に壊され、甚だしきに至っては焼かれてしまうことを知りました。私自身も壊された資料を目撃したことがあり、配布した資料が衆生を救い濟度する役目を果たすことができないどころか、邪悪に操られた人に罪を犯させてしまうのです。ここで明慧の一角を借りて、この2年来、私が真相資料を配る中で、びくびくする恐怖の心理状態から純正で慈悲な心理状態まで、師父の慈悲のご加護の下で歩んできた体得を書かせていただきます。

 2006年の冬、私は地方へアルバイトに行った時、その工場の炊事場に乱雑に山積みされた紙の中に偶然に何冊かの『九評』を発見しました。表紙もなく、ほとんどのページが破られており、ただ1冊だけが表紙を引き裂かれた程度でした。その時の私の心中はとても辛く、急いでそれらを拾い上げ、きれいに拭きました(引き破られて駄目になったものも)。親族の話によると、彼は早起きしてそれぞれの家の玄関前で何十冊もの『九評』を拾って持ち帰り、多数は火をつけるのに使ったと分かりました。私はその時彼に真相を話し、しかもそれは犯罪行為であると穏やかに指摘したところ、彼はとても後悔しました。その時彼は何も言わなかったのですが、しかし真相を分かったことが見てとれました。

 真相資料を破った事件は、私は1年前にも常人から聞いたことがあり、実は私が自分の手で配った『九評』も引き破られたことがあります。法を学ぶ時間が短く法理に対する認識が浅い上、自分の心性上の問題を探さなかったため、何でもないことだと思い、ただこのような人は救いようがないとだけ思っていました。

 ある時、ある村に真相資料を配りに行く前日、もう1人の同修がその村の親戚を夢で尋ねたと言い、その時、私は師父が弟子に啓示されていることをやっと悟りました。すべての大法弟子が救い濟度した衆生は、いずれも私たちが何回もこの世に生まれ代わってきた時の身内です。そうであれば真相資料を配る時どうして恐れてびくびくする必要があるのでしょうか?

 この時、私は自分が最初の何度か真相資料を配った時の心理状態を思い出しました。当時はちょうど出てきて間もない頃で、表面上はとても落ち着いていても、内心はかなりうろたえており、人に会うと避けるようにして、専ら辺鄙で静かな所へ行き、資料を少なめにしか持たず、広くて暴露やれやすい所を同修に残しておき、時には通りの真ん中を歩きながら、資料を玄関口に投げ込むようにしました。言ってみれば、恐れる心がおかしなことをしているのでした。

 今思い出してその心を深く掘り下げて見ると、ただの恐れる心だけの問題ではないと気づきました。恐れる心の背後に隠れている根本的な執着は私心で、その私心は他の人を顧みることがなく、よくありません。慈悲でなければ何事もよく行うことはできません。大法弟子に相応しくない心がいずれも各方面から現れてきます。

 その時、師父の教化を悟って以来、私は毎回真相資料を配り、脱党(三退)を勧める中で、すべて慈悲で和やかな心で行い、とても喜ばしい効果を収めています。

 私たちが真相資料を配る時に正念を発する中で念じます、「この村の衆生は人間の一面から覚醒して下さい。私たちはあなたたちの身内であり、師父に託されてあなたたちを救い濟度しに来ているのです。あなたたちが真相を理解し、救い濟度されることができるよう願っています」 師父に手伝って身内を救い濟度することを思うと、まるで親族の家を訪問しているような親しさと、一種の和やかさや慈悲の心が自然に湧き起こってきて、身体全体がとても楽になりました。私は資料の一部を配る毎に、すべてこのような気持ちで対処し、しかもすべての資料を閉まっている玄関のドアの中に丁寧に入れ(前もって安全で安心できる場所を考えて)、資料を筒の形に巻いたまま落ち難い所へ挟んで置きます(絶対気軽に投げ込んだりはしません。農村の庭の中の状態が分からない上に、資料がどこまで落ちるのかも分からないから)。もし資料が汚れた所に落ちれば、人に反感を抱かせるかもしれないからです。真相資料は邪悪を解体し衆生を救い濟度する鋭い武器であるため、慈悲で和やかな純正の心理状態で行うことにより、初めて衆生を救い濟度する役目を果たすことができます。師父は(『洪吟二』「法正乾坤」)の中で、「慈悲は能く天地の春を溶かし、正念は世中の人を救う可し」とご教示されています。

 もしあなたが真相資料を配る時の心理状態があまり純正でなければ、邪悪が人間の凶悪な一面を利用して破壊しにやって来ます。逆にあなたが慈悲と和やかな心で行うとすれば、あなたの心理状態が純正であるため、邪悪は乗じる隙がありません。

ここで私は更に同修の皆さんとこの話題とは少し離れますが、しかし慈悲と関連のある問題を探求したいと思います。私はかつて『明慧週刊』の中で同修の切磋琢磨した文章を何回か拝読した時、いくつかの文章の中で非難するような言葉遣いの傾向があることに気づきました。

 自分は法を学ぶことがよくできていないし精進していないため、古い修煉者や精進している同修に比べれば、法理の認識上でどれだけ次元の落差があるのかが分かりません。したがって、軽率に問題を提起する勇気がなく、ただ私に同修と共に探求する一つのチャンスを与えていただくように見なしてほしいと思っています。

 師父は『轉法輪』の中で、「この理は、たちどころに認識する人もいれば、徐々に悟り、認識する人もいます。どう悟ってもいいのではないでしょうか? いっぺんに認識できれば、それに越したことはありませんが、徐々に悟ってもかまいません。どちらも悟ったことになるのではないでしょうか? どちらも悟りですから、どちらも悪くありません」とおっしゃいました。

 私は、修煉している人は幾千幾万人もおり、すべての人が次元の違いにより、悟った道理も異なり、したがって、千差万別の悟り方があり、このすべてが正常な状態です。先に悟った同修は、邪悪を徹底的に解体し、衆生を救い濟度し、同修を救援するため、自分の悟った法理を明慧に掲載し、より多くの同修を共に向上させています。言葉の中で非常に感動した表現は理解することができますが、しかし慈悲を多めに非難を少なめにした方が良いのではないかと思います。

師父の洪大な心は宇宙の万物を包容しています。慈悲は修煉の目的で、いかなる方面においても、大法弟子は偉大な慈悲の心を持つことにより、初めて更に多くの衆生を救い濟度することができるのです。

当然なことながら、ここで言うのは精進が不十分な、あるいは出て来るのが遅かった同修が、自分を厳しく要求しなければできることではありません。師父は『轉法輪』の中で、「もっとも修煉は徐々にするものだとはいえ、だからといって自分自身を緩めてはいけません。先生が修煉は徐々にするものだと教えているから、ゆっくりやろう、などと言ってはいけません。自分を厳しく律するべきです。佛法は修煉においては勇猛邁進しなければなりません」とおっしゃったのではありませんか。

次元が限られているので、ご指摘のほどよろしくお願いいたします。


2009年7月18日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/7/12/204332.html