日本明慧
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修煉の境地


文/山東省イ坊地区の大法弟子

(明慧日本)邪悪は大法を迫害する時、多くの嘘とデマを流しました。あのような天地を覆い隠すような誹謗中傷の中で、迷って自分の信仰を疑い、大法の修煉をやめた修煉者もいました。一方、多くの修煉者は熟考したあと法輪大法が正しいと判断し、依然として修煉を続けています。私は後者の類に属しますが、精進する気がなくなっています。ここ数年、時には「よく中国共産党の嘘に騙されずにやってきた」という自慢の気持ちも生じたりします。

  ある日、同修から次のようなことを聞きました。ある年配の女性同修は拘禁されていた時に、警官らに師父の海外での生活はどれほど贅沢かというデマを聞かされました。この同修は真剣に聞いて、時々「本当ですか、本当ですか」と尋ねました。警官らの確かな返事を得た後(警官らは当然彼女を騙すためにそう言った)この同修はほっとして、「師父が海外で苦しい目に遭っておられないと聞いて、私は安心しました!」と言ったというのです。

  この同修は自分が警官らに騙されているかどうかを疑うより、まず師父が海外で安全か、落ち着いた暮らしを送っておられるかを心配していたのです。一方、私は自身のことだけに関心を持って、常人の観念で大法と師父を測り、本当にこれは罪です。この同修に比べて境地の差は本当に雲泥の差です。私は自分の汚い私心を見つけました。慈悲で偉大な師父は衆生のために全てを尽くされたのです。師父にできるだけ心配をかけないように、迷惑をかけないようにすることは、私達大法弟子の願いではありませんか? 私は本当に師父に合わせる顔がありません。

  私の私心は次のように現れました。内に向けて探す時に自分の利益を損なわないことを前提条件にして、利益が損なわれる場合は外に向けて要求しました。修煉の難関を突破しようとする時に、自分が我慢できるかどうかを前提にして、我慢できなかったら真っ向から対決しました。同修の不足を指摘する時に自分を守ることを前提にして、同修の恨みを買ったり嫌われたりすることを言いたくありません。「脱党・団・隊」を勧める時には、知り合いだけに勧めたいのです。それは身の安全のためです。私は何をやっても自分を守るための前提条件を付けていました。『転法輪』に、「修煉にはいかなる条件も付けてはいけません」との説法があります。師父と大法を信じることにはいかなる条件も付けてはなりません。それが実行できて初めて師父の弟子と言え、初めて修煉と言え、初めて修煉できるのだ、と悟りました。

  2009年7月25日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/5/4/200138.html