日本明慧
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利益を求める心を取り除く


文/遼寧省の大法弟子

(明慧日本)私は1951年に生まれました。私はかつて自己利益をよく求める人でした。1996年、私は解雇され、ある会社でアルバイトをしていました。当時、その会社で数多くの人が嘘の領収書を使って(私の仕事は領収書の発行)、お金をもらっていました。そのことを見て、自分も同じようなことをやろうと思いましたが、私は、その会社に行ったばかりなので、遠慮しました。1998年6月、私は法輪大法を得ました。そして、人間として、どれが正しいことか、どれか間違っていることかが分かるようになりました。しかし、私の分の領収書を使って(領収書があれば、お金をもらえる。一定の期間に一人分に決められた金額がある)、お金をもらった人を見たとき、利益を求める心を放下しづらかったのです。常人と同じことをやりたいと思い、修煉者としてはやってはいけないことと分かっても、何度もやりたい気持ちがありました。

 師父は「煉功者としては、どのように失と得に対処すればよいでしょうか? それは常人の場合とは違います。常人が得ようとしているものは個人の利益で、どうすれば暮らしが良くなるか、どうすれば楽に暮らせるかということです。煉功者はそれと正反対で、常人の得ようとするものは求めようとしません。そのかわり、常人は修煉しないかぎり、われわれの得るものを得ようとしても得られません」、「人間は、自分が追求しているものはすべて良いものだ、と思い込みがちです。しかし、高次元から見れば、それらはみな常人におけるささやかな既得権益を満足させるためのものに過ぎません」(『転法輪』)とおっしゃいました。私は「自分の利益を求める心は良くないもので、それを取り除かないと修煉者とは言えない」と認識できました。当時、修煉することが難しく感じたのは、お金に執着する心だと分かり、その心を取り除こうと決心しました。

 中共政権が法輪功を迫害する前に、私は『転法輪』の本をアルバイト先の上司に貸しました。私は、本を取りに行ったとき、その上司は「本に書いてあることは、とても良いですが、そこまでできる人はいないでしょう」と言いました。私は「修煉すればできますよ」と言いました。

 2001年のある日、私は窓口で仕事をしていると、ある人から、一つの封筒を渡されました。開けて見たら、3000元とほしい領収書のリストの紙が入っていました。私は迷わず、彼に返しました。数日後、偶然彼と出会って、彼は「今、拜金主義時代で、お金はもらうのに嫌がる人はいないでしょう」と言われました。私は「私が修煉者ですから、法の要求に反することはやりません」と言い返しました。その後、機会があって、彼ら夫婦に法輪大法の真相を伝え、彼らは私の行為を理解してくれました。そのような例がたくさんありました。師父は「良くないものを捨てることによってはじめて返本帰真を実現することができます。それでは、何を得るでしょうか?それは次元の向上と、最後には正果を得、功成って圓満成就に達することにはかならず、根本的な問題を解決するということです」(『転法輪』)とおっしゃいました。

 現代社会の中に、利益の誘惑がたくさんありますが、これらの利益に執着する心を放下できるかどうかで、自分を正しく位置づけられると思います。私は、「自己利益を求める心を取り除けば取り除くほど、常人とのトラブルが少なくなり、常人から利益を得れば得るほど、自分の次元が下がり、下へ落ちて行く」と感じました。なぜ、私がこの仕事を得たかというと、師父が、私の頑固で利己的な心を取り除かせるためだと認識しています。

 私は師父に遵って衆生を救い済度するため、民衆に真相を伝えようとしました。最初、真相資料を作る設備がないとき、私は真相資料をコピーしてお昼休みを利用して貼りました。夜、同修と一緒に壁に真相を書いたり、横断幕をかけたりしました。その後、「資料点」から資料をもらえるようになって、私たちは、年中休まず、一軒一軒の家に配りました。都市を配り終わったら、周辺の農村に行ったり、刑務所の宿舎に行ったりして配りました。私は、直接に真相を伝え、「三退」を勧めることにおいて、成功があれば失敗もありました。しかし、機会があれば、絶対に伝えようとします。というのは、私は「これは、師父に按排されたことと自分の先史の誓ったことだ」と認識しているからです。私は、刑務所の中に不法監禁されている同修が師父の新しい経文を見られるように、同修と努力して、経文を早く刑務所にいる同修に送ることに成功しました。ですから、同修は刑務所で5年間監禁されても「転向」しなかったのです。刑務所を出た同修は、現在、私たちと一緒に師父に遵って法を正すことを頑張っています。

 法を正す今日に至って、私は転びながらやって来ました。私の天目は何も見えませんが、師父が常にそばにおられるので、私は今日まで来ることができました。振り返って見ると、私は「師父を信じる、大法を信じる」ということを深く感じました。師父に従って、衆生を救い済度する道で、私たち修煉者の一つ一つの考え、一つ一つの念が法に基づけば、できないことはありません。常人の念か、神の念かということは、とても大切です。神の念であれば、何ごとも順調で安全に行われます。それは、師父が保護してくださっているからです。ここではその例を省略したいと思います。

 自分が歩んだ修煉の道を振り返って見ると、私は、他の同修のようにたくさんの「難関」がありませんでしたが、自分の修煉環境は決して良いとは言えません。それは、自分自身の漏れ、足りないところ、師父の要求に達していないところがたくさんあるからだと思います。その中から抜け出せば、神のようになるに違いないと思っています。

 師父に感謝します。同修に感謝します。合掌。

 2009年7月26日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/7/18/204766.html