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我々はどうして神のように振舞うことができないのか


文/悟心

(明慧日本)先日、同修と一緒に我々はどうして神のように振舞うことができないのかをテーマに交流しました。そうですね。これは確かにとても現実的な問題です。ふだん自分の修煉状態はまあまあ良くて、精進していると言えますが、いざ危険に遭い、あるいは迫害に遭ったら慌てるようになって、迫害を身に受けて手の施しようがなくなりました。大法弟子の正念は神の念なので、正念がなくなったらもちろん神の力も現れなくなります。

 逆の例もあります。2人の同修が辺鄙な町はずれに掛けものをとりつけた時、突然たくさんの警官がやってきました。せっぱ詰まった時、ある同修が木の枝を拾って警官らに向かって振り回したら、警官らは逃げました。一方、たった2人の警官が10人、20人の同修を連行したこともあります。私達の修煉に不足があるのですが、それでも旧勢力の迫害の口実にさせません。なぜでしょうか? 

 念が正しければ神が現れ、慌てれば「神」を失うのです。

 ある70歳近い男性の同修は、2001年に留置場に拘留された時、意外にも「私はしっかり獄中で頑張る」と言って、結局、1年の不法な強制労働を強いられました。先日、彼はまた逮捕されて、手錠と足かせをはめられて、身辺に監視の警官も配置されました。今回彼は、「師父、ここは私のいるべき所ではありません。手錠と足かせを開けられるよう助けてください」と正念を持って思った途端に、片手を本当に手錠から外しました。その後、警官に発見されもっとしっかり嵌められましたが、この同修は諦めずに更に強い正念で警官を眠らせ、ゆっくりと両手を手錠から出して、足かせを割って足を解放しました。そして外に出て2、3メートルの壁を軽快に乗り越えて、ちょうどそばにあった電柱を抱えて地面まで滑っており、格好良く留置場を去って行きました。

 「神」の念を持てば「奇跡」も起こります。「奇跡」は根本的に正念がもたらしたものです。深く掘り下げて考えると、「絶対的な唯物論」の影は依然として我々修煉者の心を覆っているのではないかと気づきました。修煉はとても厳粛なことで、少しの間違いが「常人」と「神」の分かれ道です。明慧ネットには正念を持って神通力を出す事例がたくさん掲載されているので、皆様に一読をお勧めします。

 神になるように修煉するにあたって、肝心なのは正念、及び修煉者としての自信だと、交流の中で深く感じました。正念と自信を持っている同修は肝要の時に「神」の念を持っていたからこそ、神通、つまり奇跡が起こったのです。

 2009年7月27日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/5/4/200169.html