二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法
 

(李洪志、二〇〇九年七月十八日)

 

皆さん、お疲れ様です!

 ニューヨーク法会が終わったばかりで、そこで皆さんにお会いしました。今回は多く話したくないので、少し遅れました。(笑)(皆さんの拍手) 法を正す全体の形勢は急速に前へと推し進んでおり、大法弟子が協力して衆生を救い済度し、法を実証する際に果たした作用は、この世の形勢に大きな変化をもたらしました。このことを皆さんは目にしましたが、世の人も目にしました。九九年七・二〇の迫害初期において、多くの人は法輪功が何日も持たないと断言していました。一部の人は本来、法輪功を支持しようとしましたが、この考え方に影響され、態度を表明するのをやめました。特に、中共邪党が学生を弾圧した六四事件の後、多くの人が中国はもう望みがないと思っており、公の場で法輪功に関わらないで、彼らも同じように何日も持たないと言っています。彼らがどのような考え方からこのように言ったのかにかかわらず、法輪功は彼らが断言したようになりませんでした。法輪功は乗り越えてきており、(熱烈な拍手)しかも外部の支持がないという状況で乗り越えてきました。(熱烈な拍手) このことは本当に世の人々に一目を置かれるようになり、さらに大法弟子の素晴らしさを際立たせ、法輪功修煉者の違いを見事に顕しました。現在、一部の人は無関心でしたが、今は注目し始め、法輪功の失敗を見ようという気持ちでしたが、今は敬服の念を抱いています。

 このことはここでまだ終わっておらず、法を正すことはまだ前へと進んでおり、大法弟子は引き続き法を実証し、衆生を救い済度し、形勢は絶えず変化し、しかも急速に変化しています。邪悪の要素がほかの空間で大量に消滅されるにつれ、世の人はますます目覚め、人の考えをコントロールするそれらのよくない要素はますます少なくなり、そのため、世の人々は冷静にこの迫害と、大法弟子をいかに見るべきかについて考えるようになりました。実は、世の人々がどのように私たちを見ているのか、これは肝心なことでも、重要なことでもなく、自分のことをしっかり行なうことこそ、最も重要なのです。迫害されている中で、私たちは世の人の態度を見ておらず、常人が大法のため何かできるのではないかという期待も抱かず、しかも世の人と衆生を救い済度することをも放棄しませんでした。世の人を救い済度することは大法弟子にしかできず、責任が重大です。迫害が最も厳しいときも大法弟子の責任を放棄せず、終始一貫して自らをしっかり修めることを根本とし、理性をもって法を実証し、衆生を救い済度しています。

 確かに迫害が始まったばかりのとき、多くのことに不足がありました。これは免れがたいことで、当初多くの人はどのように行えばいいか分からなかったからです。この突如やってきた迫害、天地を覆い隠すかのような誹謗中傷を前に、しかもデマが全世界に伝わり、法輪功はそのとき、マスコミを持っておらず、声を上げるところもありませんでした。全世界のすべてのマスコミは、中共マスコミの宣伝と報道を転載しており、中共の代わりに世界の隅々で法輪功と大法弟子を迫害しているに等しいのです。こういう形勢を前に、私たちは打ちのめされませんでした。修煉者は常人のすべてをもともと重く見ていません。修煉は個人の解脱であり、修めているのは自分であり、ほかの人が何を言っているのかはその人のことです。ただ、大法弟子は衆生を救い済度する責任があるため、衆生の状況を注目しており、これは今までの修煉と違っています。しかも、このことの責任も比較的重大なのです。相手にしている衆生、今日の世界の人はまた、今までの歴史の各時期の生命と違っています。見た目は皆、人間ですが、多くは高い次元から来たのであって、神が降りて人間になったので、救い済度することの責任、行うことの責任がさらに重大になり、さらに素晴らしくなり、このことも行わざるを得ないこととなりました。こういう状況でなければ、この迫害も今のように長引くことも存在することもなく、ただある集団の人の個人修煉だけにとどまり、旧勢力に対していかなる脅威にもなりません。宇宙で法が正され、旧い勢力、良くない要素が触れられたためであり、常人社会での迫害はただこの次元での反映に過ぎません。表面から見れば、大法弟子の常人社会での修煉方式は以前の修煉方式と違って、大法弟子はまたそれほど大きな集団を成しており、果たした正しい作用によって世の正邪、良し悪しのバランスを崩したため、良くない要素が立ち上がったのですが、これほど大きな迫害を起こすまでには至らなかったはずです。これは旧宇宙の要素が按排したもので、同時にほかの空間の良くない生命は法を正す中で絶えず沈積し、下へと落ちてしまったため、この世の空間場を非常に悪くし、世相が悪化し、人心が大きく変化し、この世はますます乱れているように見え、衆生を救い済度することを難しくし、同時に魔の現れはさらに強烈になりました。この状況を前にし、大法弟子が乗り越えられることはすでに非常に難しいことなのに、さらに乱され、だめになったこれらの衆生を救い済度しなければなりません。

 最初のとき、どのように行うべきか分からず、冷静さを欠く人もいました。圧力の前に、大法弟子の中に様々な修煉状態があるため、大法弟子は仕事を進める上でなかなか協調を取ることができません。修煉の中でいつも、精進している人とそうではない人がおり、様々な人心が混じっているため、物事を複雑にしています。以前、誰もこの法を迫害することができず、大法弟子がしっかり行わなかったら良くない作用を働いてしまうと話したことがあります。皆さんが目にしましたが、この迫害は法輪功に対して何ができたのでしょうか? どうすることもできません。この迫害は修煉者の威徳を増幅するだけで、ほかは何ものでもなく、何の作用も働くことができず、ただ迫害の中で自らを壊滅させるしかありません。しかし、今回の正と邪の勝負の中で、大法弟子は最初、協調が取れませんでしたが、徐々に協調を取ることができるようになり、そしてまた少しずつさらに理性を持つようになりました。今日になって、まだ多くのことにおいて、多くの地区において、協調が取れない現象がありますが、全体から見れば、大法弟子の全体はここ数年の修煉と法を実証することによって、鍛えられますます成熟し、ますます理性的になりました。どのようにしたらいいかが分からない状態から、徐々に分かるようになり、理性的ではない状態から理性的になったのです。

 以前の修煉は、個人の圓満成就の問題だけであり、しっかり行ったかどうかは個人の問題です。今は衆生を救い済度しようとしているため、互いに協調し合い、協力し合うという問題に絡みました。協調の過程で、どうしても人心が現れます。喜ばしいことに、何があっても、主流はずっと健全なもので、皆さんの願望は正しいのです。人心がどんな作用を働いても、旧勢力が按排した要素が作用を働いても、皆さんの出発点は法を実証するためであり、このことは誰も揺るがすことができず、そのため法を実証することは停滞しておらず、衆生を救い済度することは停滞しませんでした。協調が取れなければ、自分で行い、広範での協調が取れなければ、範囲を縮小して行い、協調が取れれば一緒に行い、いずれにしても、皆さんは乗り越えてきました。今後さらに理性をもって行うべき事をしっかり行うよう期待しています。

 法を実証することと個人の修煉は今日まで至り、本当に容易いことではありません。皆さんは鍛えられ成熟しましたが、実はこの鍛える過程は人心を取り除く過程でもあります。言ってみれば、皆さんが行ったすべてはいずれも、個人の修煉と関連しており、決して孤立してある一つのことのため、または単一的にあることを行っているのではありません。すべてのすべては法を正すことと関連しており、大法弟子の責任とつながっており、またあなた個人の修煉ともつながっており、これはいずれも分けられないことです。ですから、あなたが何を行ってもあなたの修煉状態は反映されます。お互いの協力において、不満に思ったり、激昂して怒ったりしているとき、なかなか自分を考えたり、自分がどういう状態なのか、出発点がどういう人心なのかを考えることができません。その多くは自分の意見が採用されず、またはほかの人を見下しており、この二種類の心は最も強く現れています。今もこの現象が存在していると私は目にしました。しかし、いずれにせよ、修煉なので、皆さんが鍛えられることによってますます成熟になり、理性的になり、ますます修煉者らしく事を行うよう期待しています。

 以前、法を正す時間がもう長くなく、とても短いと確かに言ったことがあります。私は皆さんがすぐに成熟し、すぐに理性的になり、それによってこのことを短い間に終わらせてほしいと本当に心から期待しています。もし、大法弟子は皆理性的にならず、成熟できず、いつも人心をもって事を進めており、それを強く表しているのであれば、このことはどうやって終わるのでしょうか? 何をもって大法弟子の修煉ができたと言えるのでしょうか?

 さらに、衆生を救い済度することについてですが、一部の人はなかなか急いでやろうとせず、現在大法の仕事を行っている大法弟子は一部の人に限られています。表に出ず、重視せず、衆生を救い済度することをそれほど重要に思っていない人がいます。実は、あなたの大法弟子としての責任は全部そこに含まれています。衆生を救い済度することを行わなければ、大法弟子としての責任を全うできなかったことになり、あなたの修煉はゼロになります。なぜなら、あなた個人の圓満成就のために、あなたを大法弟子にしたのではなく、あなたは重大な使命を背負っているからです。

 最後になればなるほど、皆さんが大法弟子らしくなり、協調がますます取れるようになってほしいと思います。何かを行うとき、相手のことを考え、トラブルに遭ったら自分のことを考え、このことは誰もが言えますし、誰もが分かっていますが、肝心なときになると、それができなくなります。毎回の法会で私もこれらの話を繰り返しており、皆さんに言い聞かせています。もし皆さんが皆、このことをやり遂げることができれば、内部にトラブルがなくなるはずです。もし誰もがこのことをやり遂げることができれば、どんなことも解決することができ、しかも協調も良くできるようになります。

 中国大陸からの学習者が国際社会についてよく知らないということですが、このことだけなら、私が思うには、短い間に皆さんが分かるようになり、この社会に溶け込んでいくのです。これは最大の問題ではありません。最大の問題は人心があまりに多いということです。もちろん、人心に言及しましたが、法を実証し、衆生を救い済度し、修煉するということに関しては正念を強くしなければなりませんが、普段の生活、この社会での行動は超常になってはいけません。神のように生活すべきだと言い、町を歩くときも普段の挙動も普通ではなくなれば、またもう一つの極端に走ったことになります。最大限に常人社会の状態に合わせて修煉すべきであり、これも私が説いたことです。ですから、理性的に修め、正々堂々と修めるべきです。これらの関係は皆さんが適切に対処できると思い、時間が経てばどういうことなのかも分かってくると思います。それらの理性のない人も少なくなりました。

 いずれにせよ、大法弟子のこの環境で理性的ではなく、突飛なことを言うなど言動が正常ではない人、もっぱら精進していない人、人心の多い修煉者らしくない人と一緒に行動し、負の作用を働く人、スパイと接触する人、理性がなくいつも学習者をかく乱しようとする人、私は本当に彼らの将来を心配しています。しかし、私は考えていますが、これらの問題が現れたとき、自分の修煉状況を考えずに、この人がこれほど良くないとか、彼がどういう人なのかをばかり考えていますが、そのとき、なぜ大法弟子の中でこのような人が現れ、なぜこのことが起きたのか、彼は一部の人に対して行ったのではないか、幾つかの人心に対して行ったのではないかとなぜ考えないのでしょうか? 必ずそうです。修煉の中でいかなる偶然な事もありません。私たちの中で正しくない状況と良くない人の行為が現れたとき、それは人心に目掛けてやってきたのです。私たちは旧勢力の按排を認めておらず、しっかり行わなければ隙に乗じられてしまいます。この方面に対してこのように行わなければならないから、良くない状態が現れたかもしれません。こういうことが現れると、皆「なぜ大法弟子の顔に泥を塗り、こういう人が現れたのか」と焦ってしまいますが、皆さんは自分のどこかが間違ったのではないかと考えていません。実は自分が本当に分かるようになり、正しく行ったら、これらの人、これらの現象はなくなり、なぜなら、大法弟子の中にいかなる偶然な事もなく、これは許されないことでもあり、誰もこのように行う勇気はないからです。邪悪がいくら邪悪であっても、このように行う勇気はありません。旧勢力の要素があえて大法弟子の中でこの作用を働いているのは、あなたにこのような人心があるから、こういう人の出現が必要だからです。このことに関して皆さんは必ず冷静に認識しなければなりません。

 多くのことは以前、話したくはなく、話してもいけなかったのです。言ってしまうと、難は更に大きくなり、更に厄介になります。なぜなら、旧い要素はあなたがこのことを明らかにしたので、それらの人心を取り除くことができなくなったと思っているからです。旧い要素ははなはだしい場合、これを理由にこれらの人を反対の方向に走らせ、更に大きな面倒を引き起こします。ですから、皆さん自分で乗り越えなければならず、なぜなら、法はすでに皆さんに伝え、皆さんも修煉しており、どんなことも修煉の中で解決されますが、あなたが真剣に修煉するかどうか次第だからです。本当に真剣に修めていれば、何でも解決されます。

 先ほど話したことはつまり、大法弟子の内部にいかなる問題が現れても、必ず幾人または一部の人の人心に目掛けてやってきたのであって、必ずそうであると皆さんに教えています。この旧勢力も法を正すことを破壊する勇気はありません。なぜなら、法を正すことが破壊されたら、宇宙も存在しなくなるからです。大法弟子は師が法を正すことを手伝っており、このことも非常に重要であり、誰も本当に破壊しようとする勇気はありません。旧勢力はそれらの要求に従ってこのことを行おうとしています。皆さんの修煉の中で、人心はどのように取り除くのでしょうか? 師父には師父のやり方があり、それらにはそれらのやり方があります。しかし、何があっても、それらに隙に乗じられないようにするために、修煉の中で自分を多く見るべきです。どんな問題が現れても、まず自分を考え、そのことを行う人たちを考えれば、問題の根源を突き止めることができるかもしれません。

 修煉者にとって内に向けて探すことは最も有効な方法です。以前、和尚と一部の修煉者は「佛は心にあり」と言い、内心に向かって修めるべきであり、実は彼はこの意味を言ったのです。実際はそうです。人類社会はほぼこの宇宙の中心にあり、大きい物質と小さい物質の真ん中にあります。外に向かってみれば、その大は外なく、果てなく大きいのです。以前皆さんにこの宇宙の大きさについて話したことがあり、ずっと話していたのですが、最後は言わなくなり、言いようがなくなりましたが、人間の言語で表現できなくなり、人間の考えも受け入れられなくなったからです。神の思惟だけが理解することができます。そして、内に向かってみれば、この宇宙も同様にそこまで大きいのです。以前、ある映画で見たのですが、滴った水滴を拡大し、大きく大きく拡大したら、たくさんの水分子になりました。そして、一つの水分子を拡大したら、この水分子は多くの粒子によって構成されていることが分かり、さらにこれらの粒子は宇宙の星のように構成されています。さらに、一つの星を拡大すると、水分子を構成した粒子に世界や町、山、海があるのが見えます。そして、その世界で降った雨の水滴を拡大したら、中にやはり広々とした宇宙があります。このように果てがなく、際限なく繰り返されています。もちろん、作者は科学からヒントを得ているかもしれませんが、この発想は決して人間が自分で考案できるものではありません。この例に関して言えば、実は実際の状況は彼の想像よりも複雑で広いのです。粒子はどこまでミクロなのか、想像すらできません。一粒の砂に果てしなく、数え切れない広大な空間、無辺無量の衆生があります。道家は宇宙が大宇宙であり、人体が小宇宙であると言っていますが、それだけなのでしょうか? 人体と外を対比して考えればこのような大と小の関係があるように見えますが、実はこの概念ではありません。外に向かっても内に向かっても、いずれも無量無辺なのです。物質のミクロさは人間の考えの本源の要素、すべての事物の起因、すべての表象の最本源を構成しており、将来皆さんは自分で見てください。複雑すぎて説明しにくいのです。(笑)

 先ほど、修煉は内に向けて修めなければならないと話しました。それだけではなく、大法弟子は世界で、それぞれの地区で相当な面積をカバーしています。つまり、あなたはこの世界で、見た目は修煉の人であり、あなたの場は周りの環境に影響することができ、これは分かりやすい言葉で言っています。実は全世界はすでに、一人ひとりの大法弟子によって一部ずつ請け負われ、この地球に現れたのですが、この地球の人間はまた宇宙と対応しています。もしその人が法を得に来たのであれば、その人はその体系の衆生の代表となり、彼の背後に厖大な体系があります。その体系はまた粒子のように構成されており、そこで終わってしまうというわけではなく、その体系はさらにミクロ的なところでさらにミクロ的な厖大な体系があります。一人の神を構成する粒子はどれくらいあるのでしょうか? それらのすべての粒子はいずれも巨大で厖大な体系なのです。さらに高い次元に行っても、同じであり、絶えずこのように重複しているのです。地上ではこの世界にいる一人の人間だけなのです。大法弟子はこれだけではなく、一人ひとりはすでに大きな面積をカバーしており、中に多くの人が含まれています。大法弟子の心が落ち着いていなければ、周りの環境をも変化させます。あなたが恐れているとき、衆生もおかしくなることに気づきます。あなたが清々しい気持ちで、胸襟が広くなり、明るくなったとき、周りの環境も変化すると分かります。真相を伝え、法を実証する中で、皆さんが行っている事が困難に遭ったとき、自分を調整してみて、正念を持って問題を考えれば、かなりの効果を得られるかもしれません。

 法を正すことが絶えず前へと進むにつれ、この現象はますます顕著になります。あなたの力がますます強くなり、邪悪の力が削減されつつあるからです。あなたの人心が重いとき、加えて邪悪と良くない要素の妨害があれば、あなたが強くなると、邪悪が弱くなりますが、あなたが弱くなると、邪悪が強くなるということが見られます。法を正すことが進むにつれ、良くない要素はますます弱まり、比較対象になれないとき、あなたはますます強く見えます。将来見てみましょう。そのとき、大法弟子はますます能力を表しますが、そのときになると最後になり、最後の最後になります。ですから、大法弟子は法を実証し、衆生を救い済度するとき、自分の態度、思想状態、やり方はいずれも肝心なことであり、世の変化を決めることができます。一人はある範囲を決めることができますが、さらに多くの大法弟子、これほど多くの大法弟子、数千万人の考えが動くと、由々しき一大事になります。

 当初、大法弟子は中国社会に大きな変化をもたらし、つまり修煉する人が増え、良い人と良い行ないが次から次へと現れ、各地の新聞もいつも大法弟子の行動と良さを報道しており、ラジオ、テレビも放送していました。この正の作用はすでに負の要素を刺激しました。三界内はほかでもなく相生相克(そうしょうそうこく)であり、人類社会は神の社会ではなく、善悪が同時に存在する社会なのです。人間自身も善と悪の二種類の要素によって同時に構成されています。世の中のすべての物質要素は皆こういう状況であり、あなたが口にする食料もそうです。ですから、あなたを構成した要素もこの空間の物質です。あなたが理性的で、善良でいられるとき、それは佛性であり、善なのです。理性的ではなく、衝動的になり、怒っているとき、ひいては理性を失ったとき、それはすなわち魔性です。ただ現れたときの程度が違うだけです。ですから、皆さんが衆生を救い済度し、この世という環境で法を実証するときに、衆生にもこういう現われが見られます。皆さんが真相を伝えるとき、善悪の割合が異なる人を相手にしています。いずれにせよ、世間には善悪が同時に存在しているにもかかわらず、人類社会は善をもって守らなければなりません。人類に正理(せいり)はありませんが、普遍的で、人々が公認している善で社会を守るという状態があるため、真相を伝えるときも冷静で理性をもって行うべきです。大法弟子が真相を伝えるとき、人々を変化させ、その人を救いたければ、人間の負の要素に触れてはいけません。必ず善であってはじめて、問題を解決し、その人を救うことができるのです。

 以前も皆さんに善とは何かについて話したことがあります。相手に笑顔を見せ、やさしそうに見えれば、それが善だと言っている人がいます。それは人間が表している友好さであるに過ぎません。本当の善とは、修煉者が修煉の過程で、善をもって修めている過程ですでに出来上がった本当の善のことです。衆生を前に、あなたにまだ修煉してできていない人間の部分があるため、修煉してできた神の部分を完全に表出させることができません。必要なとき、あなたは理性をもって、冷静になり修煉者らしく振舞わなければならず、自分の責任、自分の正念が主導的になるようにしてはじめて、あなたの本当の善が現れます。これは修煉者と神との違いです。これは慈悲であり、わざと表したのではなく、人間の善悪と好みの表れではありません。やさしくされたら善をもって接するということではありません。それは代価がなく、報酬も気にせず、まったく衆生のためです。ですから、慈悲が現れると、この上ない力があり、いかなる良くない要素も解体されてしまいます。慈悲深くあればあるほど、力が強くなります。以前、人類社会に正理がないため、人間は善をもって問題を解決することができなかったのです。人間は従来、戦争という手段で人間の問題を解決していたため、これが人間の理となりました。人間は神になりたければ、人間の状態から脱皮したければ、この心を放下し、慈悲をもって問題を解決しなければなりません。

 実は慈悲は巨大なエネルギーであり、正神のエネルギーなのです。慈悲であればあるほどエネルギーが強く、どんな良くないものも解体されます。これは以前釈迦牟尼もほかの修煉者も話したことのないことです。善の最大の現れは慈悲であり、慈悲は巨大なエネルギーの現れで、すべての正しくないものを解体することができます。もちろん、慈悲の能力は次元が高まるにつれ、増強していくので、慈悲も次元の高さによって制限されています。力は次元の果位の高さによって決められており、これも間違いのないことです。

 先ほど話したこれらのことは、現在の真相を伝え、衆生を救い済度する中でさらに良く行なうべきであり、どのようにさらに良く行うのかを皆さんに教えたのです。私はこれらのことを中心に話しました。前回の法会で皆さんに質疑応答をしたので、今回は多く話したくありません。いくら話しても、いずれも『轉法輪』を解説しており、多く話すと、皆さんが自分で考える部分が少なくなるので、多くは話したくありません。この数年、私が説法する時間が短いのもこれが理由です。皆さんに自分で修める部分、自分で成熟に向かっていく過程を残さなければなりません。師父が全部話してしまうと、皆さんが修煉したことにはなりません。大きな問題があれば、私は指摘します。大法弟子が法を実証し衆生を救い済度することを阻むことがなければ、私は話しません。全体において普遍的に存在する問題がなければ、私は話しません。皆さんに自分の道を切り開いてほしい、これが私の考えです。

 私の話はこれくらいにしましょう。法会を続けてください。今回は皆さんに会いに来ただけです。ほかの国から来た学習者もいて、はるばるやってきたのだと私に分かっています。法会に参加する目的は、一つは法会からよい経験を学び、他人の長所を取り入れ、自分の短所を補い、修煉の中で、法を実証することの中で、道をしっかり歩み、さらにしっかり行うことができるようにするためです。もう一つは多くの人が師父に会いたいと思っており、私はこれを知っています。(熱烈な拍手) 私も皆さんに会いたいので、法会に来たのです。(熱烈な拍手) それでは、これくらいにしましょう。ありがとうございます!(熱烈な拍手)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/7/23/205195.html)