■日本明慧 http://jp.minghui.org/2009/07/30/mh313840.html 



真相を伝えることは何か承知させることではない

文/中国大陸の大法弟子

(明慧日本)真相を伝えるとき、口調は穏やかでなければならず、例をあげるときは意識的に内容の次元を高めてはなりません。また、相手にどうのこうのと何かを承知させてはならず、相手に一種の求める心を持たせてはなりません。これは、真相を伝えるときに教訓を受けた後の感想です。

 ある日、タクシーで街に行きました。タクシーの中で発正念して邪悪の要素をきれいにし、師父にご加護を願いました。そして運転手に真相を伝えました。運転手は本当に縁のある人だと感じました。彼は大法をとても信じ、三退をしました。理に従えば、ここで話を止めるべきです。この人はもう自分の位置を決めたからです。しかし、彼にもっと分かるように、さらに一歩進んで話しました。「運転手は安全が最も重要です。もし、あなたは『法輪大法は素晴らしい』と本心から言えば災難を免れられます。普段運転しているときに遭った面倒なことも解決でき、交通違反も免れられます」と話しました。彼は「本当ですか? 効果があるの?」と聞きました。「それはそうですよ、疑うなら試してみてください」と私は言いました。続けて運転手の物語を作って語りました。

 話をしている中、運転手は非常に真剣に聞いていました。彼の表情からとても信じているようでした。話の途中で突然、前方の曲がり角に一台のパトカーが止まって、一人の警官がこのタクシーに止まるよう合図をしました。突然で驚きました。なぜこんなに偶然に警察に会ったのかと思いました。ただちにすべてのこの事件の妨害する邪悪な要素を取り除くと絶えず発正念しましたが、結局運転手は200元の罰金を科せられました。運転手がとても悲しそうな顔をして車に戻った時、私はとても重苦しいと感じました。車が道路に戻ってから、私たちはお互いに何も話しませんでした。

 この出来事で何が間違っていたのかを考えました。真相を伝えることは何かを承知させることではありません。これは自分が何かを求める心があると同時に。相手に何かを求めさせているからです。どんな場合でも大法が素晴らしいと信じたら罰金を科せられないで済み、面倒なことを免れると相手に思わせてはならず、これは大法の本を持って道路の真ん中で歩き、車にひかれることを恐れないのと同じではないでしょうか? 運転手に真相をはっきりと説明し、まず良い人なり、人間のこの次元の道理を遵守することから始め、例えば交通ルールを守り、お酒を飲んで運転しない、免許を携帯するなどです。もし、この基本的な条件を備えなくても「法輪大法が素晴らしい」と何度も念じたら警官に罰金を取られないのでしょうか? これはあり得ないことです。次から話を誇張せず、例えてもよいのですが、想像で作り上げたことを真実として伝えてはなりません。この種の方法は典型的な邪党文化のやり方です。

 この教訓で私は次のように悟りました。真相を伝えるとき相手に何かを承知させてはならず、相手に「求める」心を持たせてはなりません。「平穏無事」と分かってから、「法輪大法は素晴らしい」と信じるのだと思わせてはなりません。これは真相を伝えることではなく、法を破壊することです。もし、その運転手は法輪大法が素晴らしいと念じた後、相変わらず警官に罰金を科せられたら、彼はまだ大法を信じるのでしょうか? 彼は大法を罵るかもしれません。この結果は誰が招いたのでしょうか? 私たちは真相を伝えるとき、法の要求から離れたため衆生に害を及ぼしたのです。

 2009年7月30日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/7/26/205302.html

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