■日本明慧 http://jp.minghui.org/2009/07/31/mh013031.html 



修煉は自分を修める事にほかならない

文/海外の大法弟子

(明慧日本)私は長く修煉している時、各方面からの邪魔や困難が多いと感じました。なぜ順調にいかないのだろうかと考えました。地区の同修の間での論争が次々と起こり、内部の邪魔は外部の環境よりひどいと感じました。時々、この地区から離れたいという考えが出てきました。それに、取り除き難い意気消沈の状態と無力感がありました。学法を強化しましたが、学法を通じて問題を解決しようとしていたのです。私は、自分がいつの間にか外に向かって探していたことに気づきました。子供、家族、同修、スパイなどに文句を言って、その不平不満と嫌悪感で自分を壊しました。それを認識したら、この考えは怖いと感じました。どんな環境に置かれても、修煉者は正念を持つべきなのでしょうが、しかし、こんな不正な要素に動かされた時、どうやって抵抗すればよいのか? これらの執着を抱いていては、いつになったら円満して神になれるのでしょうか?それらは自分で解決することではありませんか?

 師父は『二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法』で「環境は人心によるもので、環境が良くないのは、皆さんがそうさせたのです」と説かれました。私の理解では、人心を除かないことがよくない環境をもたらす原因です。つもり、環境は、人心により求めたものです。私は、とても恥ずかしくなって、師父と衆生に申し訳ないと思いました。いつも自分のことばかりを考えて、師父のことは全然考えていません。大法に照らし合わせて、無条件に内に向けて探すことができませんでした。さらに、自分には道理があると思い、不満をぶちまけ、わざと常人の理にも違反したのです。 自分自身に、本当にどんな時にも執着していないか?と問い正しました。修煉は自分を修めることではありませんか? 他の同修を見る時の基準は何でしょうか? それは常人の理ではありませんか? 大法とずいぶん離れているではありませんか?

 神様がこのすべてをきちんと見ていますので、偶然なことはありません。このすべては誰に按配されたのでもなく、自分が求めたことではありませんか? 私の考えと法理上の理解は徐々にはっきりしてきました。修煉の道は自分で決めるものだと思います。言いかえれば、執着を除き、正念を持って本当の修煉者として行う時、師父が助けてくださるのだと思います。

 2009年7月31日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/7/15/204548.html

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