自分をしっかりと修め、慈悲が出るように修める
ー 『二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法』を読んで感じたこと
文/海外の大法弟子
(明慧日本)「以前、法を正す時間がもう長くなく、とても短いと確かに言ったことがあります。私は皆さんがすぐに成熟し、すくに理性的になり、それによってこのことを短い間に終わらせてほしいと本当に心から期待しています。もし、大法弟子は皆理性的にならず、成熟できず、いつも人心をもって事を進めており、それを強く表しているのであれば、このことはどうやって終わるのでしょうか? 何をもって大法弟子の修煉ができたと言えるのでしょうか?」(『二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法』)
師父のこの段落の説法を読んで涙を流しました。心が苦しく、師父に申し訳ないと思いました。師父はこのような心情で大法弟子の成熟を期待しておられたのです。文中に、「多い」が一つ、「とても短い」が二つ、「すぐに」が一つありました。これらの文字にたくさんの内容がこめられているのです。
師父が要求される基準に早く達したい、師父にもう苦労をおかけしたくないと思っていますが、肝心な時に意気地がなくなるのです。最近、ひどく疲れを覚え、最初は原因を探し当てることができませんでした。法を学ぶことはずっと続けており、衆生を救い済度することも絶えず行っているのに、なぜこのようなことが起こるのかと思いました。2日前、小さなことで夫とトラブルになり、心性を守れず、数日間いらいらして、自分の心性がなぜこんなに良くないのかと自分でも不思議に思いました。
師父は「大法弟子として、まだ多くのことを良く行っていません。皆さんに教えますが、実はそれは他でもなく、法の勉強を軽視したからです。なぜならば、皆さんの法に同化している表面は絶えず向上する必要があるからです。絶えず向上している時、修めによって取り除かれるべきものを按配しなければならず、それぞれの境地においてそれぞれの状態があります。もしあるところで留まってしまえば、きっと法を正す形勢に付いていけなくなります」(『二〇〇二年ボストン法会での説法』)と言われました。
もともと三つのことを行っていると思い、周辺の同修と比べて自分が精進しており、正法の過程に付いて行っていると考えていました。ところが実際はそうではなく、それは大きなところから見ると、表に出て法を正すことに参加し、衆生を救い済度していても、自分がその次元の法の要求に従わなければ、特に、長い間その状態に留まっているとき、必ず正法の中でやるべきことに影響を及ぼし、正法の過程で下へと落ちて、正法のリズムと歩みについていけなくなるのです。
自分がこの状態に陥り、拳を出すときに7割の力しか出すことができず、もともと10割出したいのに、3割の力がどうしても足りないと感じるのは、実際は心性が足りないからです。他人が自分の悪口を言うととても辛く思い、思わず言い訳をして、指摘されたときは怒ってしまいます。真相を伝えるとき相手が三退をしそうにないと思えば怒っていまい、とても救い済度できないと思うのです。なぜこのときに慈悲をもって接しないのでしょうか? 自分を修煉することに力を入れていないからです。
朝煉功しているとき、煉功音楽で師父が「心に慈悲が生じ、祥和の意を持つ」と言われたことを思い出しました。心が少しばかり揺れました。毎日修煉し、常に修煉しているのに厳しく自分に要求せず、真面目に対処しないために、いつも最も重要な慈悲のことを忘れるのです。
新しい説法から、大法弟子個人の修煉状態はますますはっきりと周辺の環境と世の人に影響し始め、私たちの修煉と正法の形式は綿密に関係していると分かりました。真相を伝え、衆生を救い済度することを妨害する観念と執着にもっと厳しく対処すべきで、着実に自分をしっかりと修煉し、慈悲が出るよう修煉しなければなりません。こうする事で同修間の距離、協調の不調和、いろいろなトラブルは必ずますます少なくなるのです。そうなれば、私たち全体が真に成熟し、本当に慈悲なる師父が私たちの心配をされることはなくなるでしょう。
2009年8月2日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/7/28/205458.html)
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