明慧翻訳をする際の心得
文/海外の大法弟子
(明慧日本)1999年末にあるきっかけで、私は明慧ネットの翻訳を始めることになりました。最初の翻訳文はわずか4行程度のもので、実際掲載された文章のうちの1行だけ私が訳したもので、私の英語は下手でした。その後、勉強を重ね、レベルが上がり今日に至りました。この数年の自分の修煉を振り返ってみると、思わず感謝の気持ちで胸がいっぱいになりました。
翻訳をすることで修煉し、心性を高める
翻訳の仕事は他のものと同様に心性の試練があります。以下に、記憶が比較的鮮明なものを述べます。
ある日、同じグループの修煉者がみんなワシントンの法会に行くことになりました。しかし、その日に多くの写真ニュースの翻訳があり、私1人で多くの数をこなしました。それで達成感が湧き上がってきて、自慢したくなったのです。その後、冷静に考えると法会に参加することも翻訳をすることも自分の選択とやるべきことで、自慢することは何もないのです。もともとそうであるべきで、よく出来なければならないのだと気づいたのです。
自分の英語にいつも自信がもてず、当番の日になると、私はいつも翻訳待ちの文章をほかの修煉者に分けて、余った分を自分でやるようにしていました。そうすると英語を練習するチャンスがなくなるのではないかと思うこともありましたが、英語が上手な修煉者に訳してもらったほうが、読者に分かりやすくてよい文章に出来上がるのではないかと考えたのです。
修煉状態は翻訳の質と効率に比例し、修煉状態がよくないときはよく邪魔をされ、考えがまとまらなかったり、眠くなったり、スピードが遅くなったりするのです。時間の制限があるため、無理やりやったとしても、その後、編集者に余計な仕事を増やすことになってしまい、最終的に掲載された時は多く直されたものになるのです。一方、修煉状態のよいときに翻訳した文章はやるときもスムーズにできて、出来上がったものもあまり直されることがなかったのです。
苦しくて楽しい
毎年の新年及び世界法輪大法デーになると、世界各地及び中国の各地区の修煉者がいつも師父への祝福を明慧ネットに送ります。私のグループがその翻訳を担当しているため、その時期はいつも最も忙しい時期となるのです。その祝賀は年々増えており、しかも2〜3日の間に仕上げなければならず、みんなで分担することにしています。その大半は地名の翻訳であるため、単調でかつ意味のない仕事のように見えるのですが、実際は特に中国各地の修煉者が一生懸命、ネットの封鎖を突破して心を込めた祝福を届けており、非常に重大な意味を持っているのです。
毎年新しい地名を見つけると私はなんだか嬉しくなるのです。なぜなら、どんなに小さくて辺鄙なところでも大法修煉者がいることが分かり、しかも、彼らは一生懸命にネットの封鎖を突破して、心を込めて師父への祝福を届けているからです。
一枚一枚きれいに作製されたカードを見ると、みんなの師父への敬意や心を感じるのです。毎年そのようなカードが届き、心を動かされる言葉や師父への思いに感動しています。
明慧を基点に
ネットの翻訳はフィードバックもなく、読者も分からず、アクセス人数も分からず、仕事の成果を感じることができません。最近、ほかの項目もどんどん立ち上がり、人手不足が目立っており、そこに移ろうと考えたこともあります。しかし、どうしても明慧の仕事を手放すことができないため、明慧の翻訳を基点に、その上、補助的にほかの項目を行うことにしました。
同じグループの皆さんは温和な性格で、普段ほとんど会えないこともあり、トラブルもありません。私にとってこの環境はまるで温室のようで、何もかも順調なのです。
精進してやまない
修煉環境が安定して、邪魔もない状態が続くと思わず緩んでしまうことがあります。ネットに掲載する文章は1日遅れたとしても確かに差が見えにくいし、フィードバックもないため、初めて翻訳を行ったときの勢いを失ってしまうのです。最近、師父の『二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法』を読んで、「初心に戻って修煉する」の言葉に打たれました。
このようなチャンスをいただいたことを、師父に感謝します。
師父のくださったこの修煉の道は私にぴったりで、自分の翻訳技能が法を実証し、衆生を済度する中で力を発揮できることができて、本当にうれしく幸せに思います。
師父、ありがとうございます。
修煉者の皆さん、ありがとうございます。
(2009年明慧10周年交流会原稿)
2009年8月4日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/7/31/205577.html)
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