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因果関係と本末転倒


文/トロントの大法弟子

(明慧日本)最近、繰り返して見た師父の『祝辞』にある「確固として最後の道をしっかり歩み、法をよく学び、自らをしっかり修めていれば、正念はおのずと強くなり、大法弟子が行うべき事を必ず良く行うことができます。」の中で、因果関係というメッセージを非常に強調されたと思います。それを受ける対象はすべての弟子とトロント地区、私個人も含まれています。私たちは迷いの中におり、常人の愚見によって作られた制限の中にいるため、物事の因果関係が見えず、それを忘れがちです。それゆえ、本末転倒(物事の重要なことと、そうでないこととがひっくりかえること)となることが多くあります。

 修煉において、真相を伝える活動をひたすら続けました。今となって振り返ってみると、毎日が戦争のようでした。よく頑張ったという勢いを覚えています。ましてや、「あんなに頑張っている自分が、この上なく偉大なことを長く続けて来ることができたので、師父は必ず圓満成就してくださる」と度々思っています。ある日、師父の『2008年ニューヨーク法会で説法』で、「あなたの向上、あなたの圓満成就がなければ、あなたが救った衆生はどこに行けばいいのでしょうか? 誰が彼らを受け入れるのでしょうか?」を読んだとたん、自分は危ないと一瞬思いました。

 因果関係というものを理解しないと、本末転倒となります。修煉の基本を忘れ、しっかり学法せず、しっかり修煉しておらず、真相を伝える仕事ばかりして次元が一つも上がらず、圓満成就まではとうてい無理です。学法に専念せず、自らを修めず、大法のことにいくら多く、たくさん、長い間力を注いでも、常人が大法の仕事をすることと本質的に変わりません。もしこのように続ければ、最後はどうなるのでしょうか? 結局、常人としての福報を得ただけです! ここまで考えると、冷汗が出てきました。これでは、修めていないことになり、果位を稼いでいるかのようです。果位は修めて得るもので、福報は稼いで得るものです。

 ところが、たくさん大法のことをやったというと、師父に圓満成就していただけるとでも思うのですか? それは、人心を持って修煉のことを認識しているのと同じです。

 そういう考え方を探っていくと、ますます危ないと感じます。「大法弟子は圓満成就になるのはもう問題ではありません。大法弟子の未来は光り輝くものです。しかし、大法弟子としてよく修煉しなければなりません!」、「大法弟子を守ります。しかし、大法弟子のように行わなければ、あなたを守れません」と師父のお教えにありました。修煉はあまりにも厳粛です! 「このように重要な問題で法理を誤って理解し、修煉や圓満成就、そして万古の機縁を人心をもって見てはいけない。成功か失敗か、この一回で決まるのだ」と厳しく自分に言い聞かせました。

 人間はまさにこのように迷うものです。一念によって天と地の差になります。徳は功に転換できる一方、業にも転換します。すべては人心によるものです!

 「道家は功法を伝授する場合、大勢の弟子に教えますが、本当に伝える弟子はただ一人しかいません。それに対し、佛家では広く衆生を済度することを重んじますので、誰でも修煉することができます。」(『転法輪』)一人の人間が成佛したければ、真の伝授を得られない限り、悲しい限りです! 佛法の修煉は、佛法の角度から見ても、師父の角度から見ても、真の伝授という問題はなく、皆を一視同仁(誰にも差別せず、全ての人に同じように待遇すること)に扱っています。修煉する人すべてに与えます。しかし、大法弟子からすると、真の伝授を受けられるかどうかの問題があります。ある日、師父の『2007年ニューヨーク法会での説法』で、「師父がすべてのものを全部この大法の中に詰め込んだと言いましたが、今になっても、私が言ったこのことの重みを理解できる人はさほどいません。将来、皆さんにお話します」を拝読した時、真の伝授とはどこにあるかのか?と思いました。師父の法理の中にあるのではありませんか。師父の経文の中にあるのではありませんか。もし、師父が真相をすべてはっきりと説かれたら、弟子にはもう悟る機会はありません。

 私は時々思うのですが、もし私の今やっていることを非常によい常人が行なうとしたらどうでしょう? 学法と心を修めること以外、常人は何でもできるはずです。もし、彼らも法を学んで心を修めれば、もう常人ではなくなります。つまり。修煉の根本とは何かということです。

 以上は個人の体験と感想です。不当なところがありましたらご指摘をお願いします。

 2009年8月5日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/6/5/202236.html
(English:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2009/6/21/108455.html

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