日本明慧
■印刷版   

なぜ自分を緩めるのか?

(明慧日本)修煉者が、執着心を取り除くことを緩めることは修煉の忌だと思います。緩めることは我々が衆生を救い済度する貴重な機縁を取り逃してしまいます。緩慢は非常によくない物質で、この「緩慢」を引き起こす多くの理由が修煉者に作用しています。以下、皆さんと分析したいと思います。

 1、学法に精進できていないため、主意識が強くなく、いつも心が静かにならないとき、冷静に自分の状態を考え、よく調整することです。

 2、積極的に法に同化することが出来ず、消極的に法に同化されることを待っており、何をすべきか分かってはいても、急いで出来ず、無関心状態になります。事態が緊急になってからやっと、主意識が外部の良くない環境に驚き、慌ただしく動き始めるのですが、多くの時間を無駄にしたので、たくさんの事を深くうまく行えず、効果もよくありません。最高の機縁を失ったので、難度もアップしてしまうのです。

 3、慈悲心が足りず、執着心を取り除くことをとても難しいことと認識し、どうすることも出来ない状態が続くと、10分で出来ることを数カ月かかっても完成できません。身の回りの執着は我々が勇猛精進する道における障害であり、我々が衆生を救い済度することの邪魔となるのです。本当に衆生を救い済度することを何よりも大事なことだと思えば、真相がわからない衆生を見れば、おのずと慈悲心が出てきて、それらの執着を取り除くことも、そんなに難しくなくなるのです。

 4、執着心を取り除く時、心を緩めると、またほかの執着心に繋がります。例えば後悔、不安などの状態に陥るのです。自分の状態が間違っていると分かっていても、正しく直す意志を決められません。ある日、突然悟り、自分がもう修煉の道で遅れていることを認識するのですが、自分の向上を重く見すぎると、不安や後悔の念を引き起こしてしまいます。そのため、近道を探そうとするため、旧勢力に乗じられやすく、結局、回り道をする恐れがあります。

 5、精進したり、緩慢になったり、また精進して、緩慢になる。この緩慢を前に進む動力、向上する模式から見れば、たばこを吸うような状態に似ており、浄化しながら、汚染しているに等しく、己を知らないのです。

 6、自分への目標は低すぎ、勝算があり、行動すべき時、絶対行動できるとうぬぼれます。実は、衆生を救い済度することは最も大事なことだと思わず、自分の向上を大事にするのです。救い済度すべきこの厖大な目標と比べると、勝算があると思わないことです。

 7、主要なものと副次的なものがはっきり認識出来ず、自分がやっていることを最も重要なことと思い、さらに大きな環境を考えていません。そうであれば、一面的な判断は形勢の発展に追いつかないのです。

 以上の感想は、ずいぶん前から書きたかったのですが、今まで引き延ばしました。実は、書こうと決めてから、わずか1時間で書けました。

 不当な所があれば、慈悲なる指摘をお願いします。

 2009年8月7日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/8/5/205904.html

■関連文章
自分のプライド心を捨てることについて
大法は人を救っている
自分をしっかりと修め、慈悲が出るように修める