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正念は、師や法を信じる度合いで決まる


文/大陸の大法弟子

(明慧日本)私は1996年に大法に出合いましたが、当時「真・善・忍」しか覚えていませんでした。1998年になって、私は法の勉強を始め、1999年「7、20」以降正法時期の修煉に入りました。この数年間、浮き沈みの道を歩んできましたので、自分では、すでに大法の一粒になっただろう? と思っています。

 2000年の年末、同修の助けの下、私は明慧ネットを開くことができるようになり、周りの同修に師父の『新経文』『明慧週刊』を提供し始め、自分も資料を印刷して配布できるようになりました。初めの頃は恐れる心がありましたが、一旦、第一歩を踏み出すと、段々恐れる心も取り除けるようになりました。

 ただ、その期間、私は、一部の同修の心性が高くないので、自主的に真相資料を求めてこなければ提供しないほうが良いと思い、真に他人のために考えず、同修に『経文』『明慧週刊』を提供しただけで、全体としての高まりを認識しませんでした。実は、それは自己を保護する大きな私心なのです。「資料があれば自分で配布したほうがましだ。同修にあげると、万が一同修が迫害されて私を売ったらたいへんだ」と思いました。実際、このような考え方が本当に事故を招いたのです。2003年に、邪な悟りに陥った人に売られました。幸いなことに、師父のご啓発のお陰で、驚きはしましたが危険なことには至りませんでした。

 法を正すことが進展するにつれて、真相資料を求める同修も多くなり、現在、皆衆生を救い済度することを着実に行っています。

 執着心を取り除かなかったため、2002年7月、私はまた「法制学校」、即ち「610弁公室」の洗脳班に連行されました。その時、私はやはり少し怖くて、「迫害されたら我慢できるかな」とずっと心配していました。もし我慢できなければ、それは死ぬより辛いのです。当時、私は一念しか持っていませんでした。即ち、死ぬまで迫害されても転向しないことです。私は『洪吟』の「無存」を暗唱し、「生きて求める所無く 死して留めるを惜しまず 妄念を蕩尽すれば 佛を修するも難からず」水や食を81時間断食して、結局、師父のご加護の下で釈放されました。

 2008年の年初、私は再度悪党に不法に強制連行されて、家宅捜査され、留置場に入れられました。悪辣な警官はすべてのDVDや大法書籍を押収し、私に「少なくとも懲役3年の判決を下してやる」と脅しました。私の修煉の道は師父が按排されたもので、邪悪が言ったことは成立しないと私は思い、そして毎日法を暗唱し、師父にお助けをお願いしました。「身は臥して牢籠にあれど傷み哀しむ別かれ 正念正行有って法在り 静かに思う幾多の執着の事 卻心悪き人自ずから敗れる」『洪吟二』の「哀別」同時に、内に向けて探し、正念を発して自分の空間の良くないものや執着心を取り除き、邪悪を解体するようにしました。

 私は遺憾な思いが一つありました。即ち、二度と天安門広場に行って「法輪大法はすばらしい」と、大声で言うチャンスが無くなったのです。今回、留置場で、チャンスがあり、大晦日の夜、私は30分間座禅してから全監区に「法輪大法はすばらしい! 法輪大法はすばらしい」と大声で叫びました。その時、私の頭の中はまったく空で、しばらくして満面に涙が流れていることに気が付きました。

 今回30日間あまり拘禁され、身体に深刻な病状が現れたので、私は一時出所することができました。

 当時、私のお腹が大きかったので人を非常に驚かせました。家族と親戚はとても心配し、大法に疑問を持つようになりました。しかし、私は何も心配せず、「もうだめだ」という考えはほんの少しもなかったのです。私は毎日法を勉強し、煉功し続けていました。その間、毎日十数回下痢していました。一週間後、私は一本の大きい蛇を切ったという夢を見ました。この空間の私はもっと酷く下痢して、毎日20回くらいでしたが、お腹は毎日小さくなり続けました。約19日間後、お腹は正常になり、1カ月後、身体も健康に戻りました。家族はこの奇跡を目撃して、法輪大法の素晴らしさを再び信じるようになり、私の修煉を支持するようになりました。

 大法弟子が迫害されたら、衆生こそが本当の被害者になります。だから、我々大法弟子は必ず着実に修煉し、執着心を取り除き、旧勢力に隙につけ込まれないようにしなければなりません。これも師父が期待されていることです。

 修煉の過程は正念を強め続ける過程であり、師や法を信じる度合いで決まってくると私は悟りました。自分のほんの一念も法に遵うものであれば、それは間違いなく神の考えです。我々は100%師や法を信じているのでしょうか? 修煉は非常に厳粛なことですので、我々は絶えず法を勉強し、いつも法の中に溶け込み、正念を持って人心を取り除かなければなりません。そうすることで三つのことをしっかり行うことができます。「ほかの人のことを配慮し、無私無我で、なおかつ他の人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならない」『精進要旨』の「佛性に漏れなし」

 師父の慈悲なる済度に感謝いたします。

 2009年8月12日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/8/9/206158.html

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