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同修は私が魔難から抜け出すように手伝ってくれた


文/山東省の大法弟子

(明慧日本)話せば恥ずかしいことですが、私は14年修煉しましたが、最近の10年は家庭の関を乗り越える事ができませんでした。夫は常に小さいことで腹を立て、私を叱りました。私は闘争心をもって夫と口論しました。時間が経つにつれて恨む心が生じ、いつも夫が先にトラブルを起こしていると思いました。私は内に向かってどこに問題があるかを探すことなく、やりきれない思いでいっぱいでした。私は常に同修に自分のやり切れない苦しい心を訴え、自分には間違いがなく、全部夫のせいであることを他人に分かってもらいたかったのです。

 私と夫はいつも対立していました。私たちは再婚同士で、娘も実の子供ではありません。私と娘のトラブルは、面子のため今まで同修に素直に話せませんでした。このため、多くの良くない念が暴かれず、かえって深く隠れてしまいました。

 ある日、知り合いの同修が私を訪ねて交流しました。私はこの数年間のやりきれない思いと、受けた苦しみを同修に話しました。同修は私の感情的な言葉に動かされることなく、私が継母として困っていることを理解し、私の話をすべて聴いてくれました。同修の和やかで穏やかな態度と、正念に満ちた場の中で、私の軽率さ、憂慮、悲しみ、不満、やりきれない心などがだんだん薄れていき、次第に恥ずかしい気持ちになり、自分の不足と同修との差を見ました。私は今まで同修のように夫と娘に優しく接した事がなく、さらに彼らの立場に立って考えず、彼らの気持ちを考えた事がありませんでした。

 私が夫と娘にしたことは、すべて表面上のことで、内心から生じた心からのものでないことを見つけました。私が娘を教育するのも、私的な心からで、彼女の良くない行為を早く改めさせようとし、娘の立場に立って、彼女のために考えてあげませんでした。夫が娘を可愛がりすぎる様子は、私の嫉妬心を刺激しました。他人に見られたくない心は即ち自分の利益を守る心で、自分の認識を主張し、自分の観念を守ろうとする表れです。私は旧勢力のように、他人を改めさせようとするばかりで、自分を変えたくなく、大法に照らして無条件に内に向って探さず、自分を修めていませんでした。さらに同修のように100パーセントが他人の間違いであっても、自分を振り返って考える状態には至りませんでした。

 長年の家庭のトラブルの中で、もともと修煉していた夫と、6歳のときに法を得た娘がだんだん法から離れていきました。彼らのこの状況を見て惜しいと焦る心はなく、自分が受けた苦しみのため態度が冷たくなり、彼らに関わりたくありませんでした。

 私が修煉しているのは真善忍ですが、どの点が真善忍なのでしょうか? 私は自分に慈悲心がないことに気付いたと同修に告げました。私が自分を分析している時、同修は心を込めて聞いてくれ、「不足を認識することが修煉ではありませんか。他人の考えを気にせず、自分が行なうべき事を行えばよいのです」と善意に私を励ましてくれました。

 その後、師父の法がはっきり頭の中に浮かびました。「平素から慈悲に満ちた、和やかな心を保っていれば、問題が起きた時には、一息おいて余裕をもって、適切にその問題に対処することができるのです。日頃いつも慈悲の心を保ち、善をもって人に接し、何かをする時にはいつも他人のことを考え、問題が起きた時はいつも他人がそれに耐えられるかどうか、他人を傷つけることはないかを考えていれば、何の問題も起こりません」(『転法輪』)

 「実際には、皆さんの以前の本性は、自らのため、私のためを根本としたものだったのですが、今後、何かをする時には、まずほかの人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他の人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです。 それゆえに皆さんは、今後、何かを行ない、何かを口にする時にも、ほかの人のため、ひいては後世の人のために考えなければなりません! 大法が永遠に変らないようにするために考えなければならないのです!」(『精進要旨・佛性に漏れなし』)

 師父に教え諭され、同修の助けによって、自分の私心である旧宇宙の観念が自分の心性の向上を阻んでいることを認識しました。私に心の底から善の念が生じ、他人によく接し、慈悲で家族と衆生に接した時、私は今までの魔難が何でもなく、やりきれない恨みの心があっという間に消えたことに気付き、心理状態も穏やかになりました。この時、夫を振り返って見たとき、真心から彼のために残念に思い、彼が再び修煉の中に入るように手伝い、この万古の機縁を失わないようにしたいと思いました。

 慈悲で偉大なる師父に感謝します。真心から私を助けてくれた同修に感謝します。

 今回の同修との交流で私は魔難に遭っている同修をどのように助けるかの問題を考えました。魔難に遭って苦しんでいる同修を冷たく指摘して、簡単に内に向かって探すべきだと告げるのではなく、また同修の情に動かされてはなりません。和やかな慈悲の心で難の中にいる同修の話を聞き、同修の立場から理解してあげれば、同修は信頼感を覚え、自分の内心の感受をすべて話す中で、不正な観念が暴かれ、自然に自分の執着を見つける事ができます。あなたのこのような和やかな正念の場は同修を加持することができ、同修の不正な要素が解体されるのです。同修が徹底的に問題を見つけることができなくても、あなたの善意の指摘を素直に受け取り、自分の問題点を認めて、自分の私的な観念を捨てさり、向上することができるのです。

 以上は身を持って体験し、認識したことです。間違っている所があれば、同修の慈悲な指摘をお願いいたします。

 2009年8月12日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/8/4/205850.html

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