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「秩序」に対する少しの体得


文/中国大法弟子

(明慧日本)先日、「明慧週刊」に同修が書いた文章の「秩序を語る」を読んで、とても同感しました。ここで自分の悟ったことを皆さんと分かち合いたいと思います。

  同修の文章に、「中国では、子供が両親に従わない、学生が先生に従わない、従業員が上司に従わない……誰もが自分の思うままにしたい……」と書かれていました。本当ですね。現実にこのようなことはあちこちで見られます。常人の中でよく見受けられ、学習者の中でもこのような例は珍しくありません。

  私は学校の教師です。学校では上司の指示に従うべきですが、上司に真相を伝えてから、お互いに以前より物事を大目に見てもよいと思うようになり、部下らしくない発言をし始めました。例えば、校長の指示に対して、私は、自分が修煉者なので、物事の本質まで見ることができ、校長の考え方に変異な要素があるかもしれないと思って、自分の主張を言い出し、校長の指示をそのとおりに実行しませんでした。時間が経つと、意外にも一つの悪い癖を身につけ、校長が何を言い出しても私はすぐに自分の見解があり、自分の見解のほうが現実的で、もっと生徒の心理に合うと思いました。幸いにも校長は心が寛容な人で、私を個性に満ちた人だとしか言いませんでした。

  正直、「個性に満ちた」というのは褒め言葉だと、最初私はよく常人の考え方で思っていましたが、その後の出来事が私の見方を変えました。私のクラスのある生徒は、同修が言う「先生に従わない生徒」で、私の言った宿題を彼はいつもやりとげず、いつもその理由があるのです。私が立場を変えて考えると、やっと校長の私に対する「仕方がない」気持ちが分かり、私もこの生徒を「個性に満ちた」と認めるしかありませんでした。この生徒のお陰で私は自分の不足に気付きました。よく考えてみると、環境は自分の心が作り出したものではないでしょうか?

  実は、「個性」とは、(形を変えた)自己に執着することではありませんか? 上司に従わない行動の裏に、いつも自分なりの理由があり、自分の見解が正しく、私こそ誰よりも全面的に配慮しているという思いがあります。誰かが自分の意見を言うと、私の内心ではすぐ「反発」する気持ちが生じ、私には私の考えがあり、あなたの意見とは違い、あなたの意見に従わないと思う癖を身につけたのです。常人社会で私の態度は、実は他人を尊重せず、自分に謙虚さが足りないことで、常人の中の良い人にさえ及びません。

  修煉者として、よく考えてみると、これは共産党文化の一つの現れではありませんか? 中国共産党はいつも自分を「偉大、光栄、正確」と言って、自分が永遠に正しくて、みんなが自分(共産党)の言うようにしなければならない、と思っているのです。

  同修の皆さん、このような「私はいつでも正しい」という観念は、取り除くべきではありませんか? この自己を強調する意識は、旧宇宙の観念ではありませんか? 人だけを変えたくて自分を変えたくない意識は、旧勢力の思想に符合するのではありませんか? このような意識に顕示心理と闘争心が含まれているのではありませんか? 人に従いたくなく、一方いつも人を自分に従わせたくて、自分の観念に合わなければとても腹が立ちます。師父は私たちに「無私無我」の境地を目指すようにと期待されているのですが、我々はどうして放下することができないのでしょうか? 根本から言うと、心で「私」が働いているのではありませんか?

  もし私たちの誰もが「自己」を捨てることができるなら、旧勢力はどうやって私たちの間に隔りを作る事が出来るでしょうか? もし私たち誰もが「私もない、我もない」ことが出来るなら、我々の間に協調できないことがあるでしょうか?

  2009年8月13日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/7/29/205468.html

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