■日本明慧 http://jp.minghui.org/2009/08/13/mh140191.html 



明慧文章の編集を通じて、心の容量を大きくする

文/海外大法弟子

(明慧日本)私は2000年から明慧の仕事を始めました。ずっと自分は初心者だと思ってきましたが、振り返ってびっくりしました。この数年間、編集者をする中で、自分が法を実証する要求に達しただろうかと、自分に問いかけました。

  明慧文章の編集という仕事は、時間に対する要求が厳しく、毎日、文章更新の頻度が高く、長期に続けなければならないプロジェクトです。数年来編集をやって、私はこの仕事のお陰でとても成長しました。

  本当を言うと、私が参加している法を実証するプロジェクトの中で、明慧の編集は一番時間を費やす仕事ではありませんが、永遠に毎日最も優先して、最も大事にやっている仕事であることは違いありません。他のプロジェクトがどんなに忙しくても、私は常に明慧編集の仕事を優先して終わらせます。いいえ、終わらせなければならないのです。

  一.純粋な気持ちで編集の仕事に挑む

  編集の仕事を始めたばかりの頃、経験が少なく真剣さも欠けていたため、ミスを犯さないようにとばかり思って、周りの評判も気になり、とてもプレッシャーが大きかったのです。プレッシャーが大きいほど、かえってよくミスが出ました。あるいは、原稿を編集する時他のことを考えたり、電話がかかってきたりして、原稿を読むことに集中することが難しい時もしばしばありました。文章の後半を読む時、前半の内容を忘れたり、読んでもポイントを掴めなかったりして、編集の質が落ちるほか、時間も無駄にしました。特に書き方が下手で筋道が通っていない文章に対して、不採用にしたい気持ちになります。しかし、中国国内から明慧に投稿するのは、決して容易なことではないと分かっているので、簡単に不採用にするわけにはいかないと思いました。その時、私は少し後に廻すようにしました。締切りが翌日になる文章は、翌日に廻して編集していました。

  これで、編集する時に、いかなることにも邪魔されないように集中して、たとえ編集を中断せざるを得ない時でも、引き続きやる時に他の事を全て忘れて、編集に集中しました。ここ数年、11月、12月頃は、私が住んでいる町で神韻イベントの一番忙しい頃です。神韻イベント関連の仕事をしながら、どんなに雑務が多くても、編集を始めると、頭にはほかのことを何も置かずに、文章だけを入れました。時に私の記憶力は非常に良くなって、文章全体が頭の中に収められ、筋道、文字、句読点、段落を上手に組み合わせていました。自分の心を純粋にすれば、文章に相応しい適切な見出しも自然に目の前に浮かんできます。いくつかの仕事の間のバランスをうまく取れば、実は他のプロジェクトを滞らせることもありませんでした。

  二. 原稿に啓発され、自分の執着を取り除く

  数年来、中国国内の同修からの修煉体験文章を編集するにつれて、私は数え切れないほど何度も感動して、啓発され、師父の細心かつ慈悲なる加護を感じました。

  私の修煉過程の一時期に、ある種の常人の「人心」がとても強く出て、迷いの中に置かれた自分は法理を悟っていないため、自分の状況すらうまく同修に説明できず、うまく交流できませんでした。しかし、師父の法身が一番私の執着を分かってくださり、編集原稿の内容を通じて、私に悟らせ、「千年にわたって骨の髄まで形成した人間の理」を取り除くことを教えてくださいました。 

  心の中で執着していることがあるときに、協調人から送られた原稿に、同じようなことについての交流文章があったりします。私はよく震撼され、涙を流しながら編集をしていました。特に原稿に私の執着心を的確に示した内容はなかったのですが、同修の素朴な言葉遣いから私は自分の人心が見つかり、法理を悟ることができて、内心の執着は瞬間に煙のように消えました。その後ろにはあるのは、また師父の法身の慈悲なる済度でした。

  私がどんなことに出会うか、どんな文章が渡されるかは、絶対に偶然なことではないと、ずっと信じています。外見では、協調人が原稿の配分の段取りをしているように見えますが、実は師父が私たちの修煉のために道を開き、天に昇る梯子を作ってくださっているのではありませんか?

  三.編集の中で心の容量を大きくする

  2009年1月、地元の神韻のイベントが終わった後、私はすぐ他のプロジェクトに移りました。忙しかったのですが、穏やかな修煉状態でした。しかし暫く経つと、仏学会はもう1、2回の神韻イベントを開催することを決めました。私としては、去年のイベント時は本当に大変でした。明慧編集以外のことに触れる時間が全然ありませんでした。またイベントを準備するのにどれだけ仕事の量があるかをよく分かっています。その時、明慧編集の仕事を負担のように思いました。数日の間、私に配分されてきた文章が多いと感じ、もうちょっと少なくしてほしいと思いました。

 ちょうどその時、もうすぐ「法輪大法デー」になるため、一部の編集者は中国の同修からの師父への挨拶文の編集をしなければならない、と協調人が私に教えました。挨拶文の編集は数量も多いし、時間制限もあるため、私にもうちょっと仕事の量を増やしても大丈夫か、と聞きました。私は心で今でも既に多すぎる、と思いながら、このようなことに出会ったのは絶対偶然ではないと分かっています。協調人はまた、私たちのチームの編集者たちは、最近、みんな忍耐力が足りないようだ、と言いました。心の容量を大きくして忍耐力を強めなければならない時が来たと思って、私は「はい」と言って、引き受けました。

 師父の法を思い出しました、「大法は無辺であり、すべてが心の修煉にかかっています。『師は入口まで導くが、修行は各自にあり』と言われているように、すべて本人自身がどのように修煉するかによります。修煉できるかできないかということは、本人が忍耐することができるかどうか、代償を支払うことができるかどうか、苦しみに耐えられるかどうかによって決まります」(「転法輪」) 私は内に向かって探して、大法の広大さを感じました。ある精進の力は、私に執着を取り除いて、上に向かって修煉するように導いている、と感じています。

  深く自分の執着を掘り出せば、まず苦労をしたくない気持ちに気付きました。しかし苦に耐えられるかどうかは心性を評価する一つの要因です。一方、編集の仕事の量が多いか少ないかを「感じた」のは、私の人心が動いたからです。師父は、「やる気があるかどうか、気分が良いかどうか、愛しているのかそれとも憎んでいるのか、とにかく人間社会のすべてのことが情から出ています」(『転法輪』)と言われました。私が「仕事の量の多さを感じた」のも情の一つです。それを感じることなく、思うことなく、送信されたファイルにある仕事を確実にやり、編集を完成することに集中すれば、自ずと人間の状態を突破し、神の状態に入ると思います。 

 確かに、それから私は何も「感じない」ようにして、協調人が私の仕事量を増やしたことも感じていませんでした。もしかして、彼女は私に気を使って、本当に増やしていないのかもしれません。しかし、このことを経て、文章の編集が以前より順調にできるようになったと、私は感じました。

  もちろん、私の編集の質を高めないといけないと思っています。毎回チームの交流は、とても勉強になります。時間制限があるため、原稿をもっと読者の注目を引くように上手に編集しなければならないのですが、なかなかまだできていませんでした。明慧ネットが修煉者と神だけではなく、常人からの注目も集められるメディアになるには、私たちに法からの要求も厳しいのです。専門知識を勉強する過程に於いて心性を高めるには、我々の技能レベルを高めることも必要です。それは法から来た知恵なのですから。

 (2009年明慧10周年法会交流原稿、一部内容を省略)

  2009年8月13日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/7/30/205584.html

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