「経営者の同修」と「社員の同修」との関係
(明慧日本)このテーマについて書くのは、心中が穏やかではなく万感な想いです。なぜなら、この数年来、経営者の同修と雇われた社員の同修との間に発生した多くの問題を見てきたからです。これについて、自分の感想を書き出して同修と交流したいと思います。
大法弟子が経営している会社は、同修を雇用することを希望しています。その理由は、同修であれば真面目に仕事をし、安心できるからです。一方ではお互いに交流し合い、修煉の環境を形成することもできます。この修煉の環境は、全体の昇華と衆生済度にとってとても肝心なのです。しかし、実際はどうでしようか? 雇用された社員の同修は会社に出勤すると経営者の同修との間に問題が生じ、その問題は時間が経つにつれエスカレートして行くのです。最後には雇用された社員の同修は会社を辞めてしまい、両者とも心の中ではねじれが生じ、沈痛の状態に陥ったのです。その結果を招いてしまった根本的な理由は、お互いに相手の不足ばかり見ていて、無条件で自分の内に向けて探したりせず、仕事場を修煉の環境の一つとして考えていなかったからです。それから、心を開いて交流し合い、全体の昇華につなげようとしなかったことにも原因があります。そして、よくできていないときは常人にも及ばず、常人に悪い印象を与えてしまいました。
社員の同修は、大法弟子が経営している企業に就職して仕事し始め、経営者の同修はその同修を大切にしていました。その同修も真面目に働き、よく残業もしていて社員の中で大好評でした。短期間であるセクションの統括を任命されました。しかし、社員の同修は経営者の同修の経営方針に賛同せず、よく意見を述べていました。経営者の同修は提案されたことをいつも真剣に聞きながら判断していました。社員の同修が会社のために考えていることを、経営者の同修は理解していましたが、提案されたことのすべてがそうではないと判断していました。企業とは「商品経済の大道」に走っている一台の自動車のように、どの部分の道で速く走り、どの部分の道でゆっくりと安全に走らなければならないのか、経営者は常に把握しています。ですから、同修の提案に対して取り入れるものもあれば、多くは取り入れなかったのです。そこで社員の同修は不満が生じ、「私は会社のために提案しているのに、なぜ取り入れないのか?」と思ったようです。
社員の同修は自分の提案を重視してもらえず、経営に生かしてないとの理由で、退職届を提出して会社を辞めました。ここに至るまで、両者はこのことについて数回交流しました。しかし、それぞれ自分の理由を強く主張していました。経営者の同修は、「もし社員の同修の提案を全部経営に取り入れれば、今まで計画した経営方針を乱してしまいます。社員の同修の提案は局部に立って考えており、企業の全体に対する見方になっていません」と言いました。この問題については、社員の同修は経営者の同修への理解が足りず、会社の全体に立って問題を見ておらず、提案したときは「自我」を強調しすぎていたため、経営者の同修に辛い思いをさせていたのです。経営者の同修は、「とても難しいことですね、社員の同修の仕事ぶりは言うことがなく、ただ自分の意見を主張し始めると過激になり、時には常人にも及ばなかったのです。常人の社員はこのような態度で私に接する勇気がありますか?」と話していました。
この問題の根本的な原因は、「社員の同修は経営者の同修のことを経営者とみなさず、身内と見ていたからであり、甚だしきに至っては自分が経営者になったつもりでいたこと」にありました。それから、上下関係を重視せず、社員に与える影響も考えず、自分を強調し過ぎて、経営者の立場に立って穏やかな態度で提案しなかった面もありました。なぜ、自分の提案がすべて正しくて素晴らしいと思うのでしょうか? 経営者はやはり経営者であり、自分の企業を経営管理するのです。私たちは物事に対して自分の意見を強調しすぎていたときは、間違いなく背後に「自我」が居座っているのです。私たちの修煉は心を修めなければなりません。問題が現れたときは自分にどんな人心があるのかを見つけて取り除くように努力し、それができなければ同修が一緒にいる意味がなくなります。この件を通してみれば、当事者は少なくとも内に向けて探していないことが言えると思います。
これは別の事例ですが、もう一人の同修は、経営者の同修の会社で仕事していました。ところで、経営者の同修の経営能力は同修の能力より劣るため、社員同士がよく経営者には経営能力がないとか、話のつじつま合わないなどと議論していました。このような時は、同修であれば経営者の同修の不足を補い、その場を円融して自分を高める環境に変えなければならないのに、同修は社員と一緒になって話していました。この事について経営者の同修は承知していました。どのように解決すればいいのか? 交流しても結論は出ませんでした。そこで、経営者の同修は朝礼時間を利用して、社員の前で同修のやり方に問題があると指摘しました。同修は面目丸つぶれになったと思い、後日退社の道を選んだのです。
実は、経営者の同修であろうと、社員の同修であろうと、その人が持っている徳の量によって決められており、あなたから見れば大した人間でなくでも、その人は持って生まれた徳が多く「経営者」になり、あなたは社員にしかなれないのです。あなたは人心を取り除くチャンスを失い、人心を取り除かなければ、会社を辞めてどこに行っても同じ問題に出会うことになります。なぜならば、あなたの心にその物質が存在しているからです。
ある経営者の同修は、ある同修は仕事が見つからないと聞き、自分が経営している会社に来てもらいました。しかし、会社に来てもらった同修は多くのことについて自分の枠内で進めようとしているのです。例えば、経営者の同修は「真相を伝えるときに平和的に落ち着いて、安全を重視し、邪悪に隙を与えない」と考えています。しかし、同修は「真相を伝え、人々を救い済度するときは単刀直入にして、話せる勇気と話題を変える勇気を同時に持たなければならず、会社に来ている客のすべては縁のある人で、済度されるチャンスを失わせてはならない」と強調していました。そこで二人の意見が合わず、長期にわたり議論していましたが、両者とも譲らず、最後に同修は会社を辞めたのです。
私が思うには、大法弟子はどんなことを行っても、基点は衆生済度にあります。どのような方法で済度するかは、大法弟子が事前に相談して決めておいて、一人は話して皆が発正念するか、それとも皆が話しながら発正念するかを、必ず全体の協調の上に立って考えれば人々を済度する力が大きくなります。この問題はとても大切なことであり、できない人は円満成就できないと考えています。
同修と経営者の同修は、経営管理において常人の次元の理に合わせる必要があると私は認識しています。あなたは同修だからといって経営者の同修に代われることはなく、ましてや社長になったつもりで勝手に社員に指図してはなりません。両者は真心を持って交流すべきだと思います。経営者の同修は、同修に対して威張るようなことはせず、同修の提案や心の感受を尊重すべきだと思います。一方、同修は簡単に辞職してはなりません。双方の努力と協力を通じて、良好な仕事環境と人々を済度する環境を切り開くのです。
2009年8月16日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/8/6/205976.html)
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