■日本明慧 http://jp.minghui.org/2009/08/16/mh171862.html 



内に向かって探した体験

文/黒竜江省の大法弟子

(明慧日本)10数年の修煉の中で、肝心な事に遭うたびに、師父の差し伸べていただいた手があったからこそ、今日までたどり着きました。さもなければ、私は今、どのようになっているか想像するのも怖いぐらいです。次に、内に向かって探すことについて自分の体験を話したいと思います。

 内に向かって探すことは自分をしっかり修めるための秘訣であり、師父がずっと強調されていることです。また、すべての大法弟子として従わなければならないことです。しかし、具体的な問題に対して、やり方はそれぞれ異なります。一部の人は物事に対して思わず外へ向いてから初めて自分のことを反省します。これは完全に内に向かって探すとは言えません。これは形だけのことであり、真に内に向かって探す効果が得られません。内に向かって修めることは如何なる条件も付けてはなりません。私たちが法を実証する中で、同修の間で協調できず、心を放下せず、関門を乗り越えられない時は、最も内に向かって探すチャンスがある時です。どんな原因でこの状態になったのかを見てみてください。それは人心があり、人心があなたを遮っています。それを晒して、放下すれば、人心がなくなった時に心がすぐに明るくなります。本当に柳暗花明又一村ということです。

 三つのことをしている中で、内に向かって探すことは同修間の隔たりを取り除くことができることを体験しました。私達3人の同修は、いつも自分の地区のことを相談しながらやっています。私は最後に参加したのであり、他の2人は長く、しかも仲もよいです。認識の違い、法理への理解の違い、物事を処理する方法の違いにより意見も異なります。これは普通です。しかし、人心があるので、私はいつも困っています。誰の意見に賛成しても、もう1人に嫌われるのを恐れ、私は意見を述べません。あるいは2人の意見に対してあいまいにします。とにかく、私は法を実証することや個人の心性の向上に影響を与えることを心配します。しかし、こうすればするほど、彼女たちの対立がひどくなります。一方、私は落ち着いていられなくなり、学法も心を静めて進められません。

 学法を通じて私は自分のことを反省し、問題を発見しました。私には、人を傷つけることを恐れる心があり、さらに自分が傷つけられないようにする自己保護の心があります。法に基づいて圓容するのではなく、法に適って法を実証することに有利な話であれば、誰の言うことでも実行するというわけでもありません。ただずるい心を持ってあいまいにするだけです。私がこれらの心を発見してから、これらの現象は次第に少なくなりました。なるほど、すべて自分の心が在って初めて生じたものだと悟りました。それから、皆一緒に三つのことをするのにも、すればすれほど堅実なものとなりました。

 「家庭は小さい社会であり、社会の一切も家庭の中に反映することができる」と言う人がいます。私は息子と娘ともにいて、内孫や外孫もいます。良いときは団らんしていますが、トラブル遭ったらやはり悩みます。他の家庭と同じように日曜日になったら、いつも皆揃って食事をします。皆が来る時は、私は長い時間を費やして支度をし、皆が帰ってから私は片付けをしなければなりません。それも短時間ではできません。このようにしてきましたが、私は文句を言いません。修煉者として誰に対しても良くしなければならないので、この家庭の事をバランスよくし、皆を満足させなければなりません。

 しかしある日、家に客が来ました。孫娘は「私のおじいさんは優しいけど、おばあさんは良くない」と言い出しました。すぐに私は怒りました。なんでも私ひとりで段取りし、奉仕し、皆のために働いているのに、なぜこのように言わなければならないの? しかも客の目の前で言われて、メンツが潰された、と心で愚痴をこぼしました。心を痛めて不平に思いました。

 しかし、なぜこのようなことがあり得るのでしょうか? 修煉者としてすべては偶然ではありません。やはり、自分が何かの心を放下できていないのではありませんか? 実は、私は子供に対する情が重すぎ、メンツを重んじる虚栄心があるのだと分かりました。いつも子どの事を心に掛けて、ああだこうだ思って皆が自分から離れられないだろうと思っていました。虚栄心が強くて、若いころから、自分が苦労してもメンツの方が大事だとしていました。これはどれだけ危険な心でしょうか? この心を持ってどこに行けるのでしょうか? どこへも行けません。

 師父は「親族の情に執着するならば、必ずそのために疲れ、まとわり付かれ、魔がさして、その情の糸をつかんで一生をかき乱されるのですが、年を取って悔いたところで遅いのです。」(『精進要旨』「修者忌」)とおっしゃいました。私は豁然とはっきりしました。この心を晒して無くせたことを嬉しく思います。この時、息子が私のために孫娘を叱っていました。私は一笑して、大丈夫ですよ、私の執着心をなくすために言ってくれたから、と話しました。周りの人が話を聞いて皆笑いました。

 以上は、内に向かって探した体験談ですが、自分をしっかり修めるために必ず内に向かって探さなければならないと深く認識しました。これはただ口にするだけではなく、してもしなくても構わないというわけではありません。真に行動に現れるものです。さもなけれな、進歩がなくずっとそのままで留まってしまいます。初めて書いたのですが、間違っている所はご指摘してください。

 2009年8月16日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/8/10/206219.html

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