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経文『すぐに目覚めよ』を学んで会得したこと


文/台湾の大法弟子

(明慧日本)この前、私は師父の最新経文『すぐに目覚めよ』を読んだ後、同修の不足を訴え始めました。常人向けの活動に対して、参加したのは全部同修達の友人で、常人は少なかったのです。そのため真に人を救う作用を働きませんでした。私は責任者の同修がみんなの時間を無駄に使って、多くの人手を必要としている他の法を実証する大法のプロジェクトにも影響があると責めました。しかし、その後私はすぐに何故こんな過ちを犯したのかと自分に聞き、自分の問題を見つけました。前から、私は今行っている活動に問題があると思っていました。その後、師父の説法を読んで、師父が責任者の同修のことをおっしゃっていると思い込んでしまいました。

 私は間違えていました。師父は同修ではなく、私のことをおっしゃっていました。師父の説法は一人一人の弟子に対して話されたのではありませんか? 何故法を学ぶのでしょうか? 法に照らして自分を見るためではありませんか? 自分の不足を探すためではありませんか? しかし、私はかえって他人の不足を探していました。

 もともと人が救われる活動を救うところまで行わなかったのは、責任者の問題でしょうか? 違います。それは参加した全ての同修の問題です。責任者の同修があんなに苦労して活動を行いましたが、みんなが心を込めて推し広めていなかったため、一丸となれませんでした。だから人々の注意を引き付ける訳がありません。私についても、私は本当に多く行いませんでした。みんなが私のようであれば、活動は当然人を救う作用を働く訳がありません。だからこそこれは自分の問題で、他の人を責めてはなりません。

 このことを通じて、私は自分の不足を見つけました。学法の時、常に師父は他の人に話しておられると思い込み、法に照らして他の人をみていました。そして正々堂々とその人の不足を訴えていたのです。同修の間に問題が表れたら、私達は責任を探すのではなく、内に向って自分を見るべきです。

 これは自分の認識で、間違った所は同修の慈悲なる指摘をお願いします。

 2009年8月19日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/8/18/206696.html

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