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偏りすぎないことは、成熟に向かう大事なことである

(明慧日本)師父は『取中』(『精進要旨』)という経文の中で次のようにおっしゃいました。「弟子たちの認識上の差異から、一部の弟子はいつも一つの極端から他の極端へと転じて、わたしの書いた法を見るたびに過激に行動してしまい、さらに新たな問題を引き起こしています」

 最近、師父は説法の中で内に向けて探すことの重要性を強調されてきました。一部の同修は極端に走り、何かが起きると内に向けて探すことしか考えておらず、同修の不足を指摘しようとせず、またその必要性がないと考えています。同修の会話が自分のことに及び、自分のやり方が否定されたとき、或はある地域の同修が多く連行された原因を分析するときは、これは「外に向けて探し、自分を修めていない」と思ってしまい、ひどいときは同修との切磋琢磨までも拒絶してしまうのです。このことによって一部の同修は話すことを恐れるようになったのです。

 大法の修煉は内に向けて探すべきなのですが、内に向けて探すことは他人の不足を指摘してはならないということではないのです。禅宗のように自分で悟り、聞いてはならず、助けてはならず、話し合ってもいけないということではないのです。お互いに切磋琢磨し、高めるために師父は法会、交流会という修煉方式を教えてくださいました。ですから私たちは師父が按排して下さった修煉の道を正しく歩むべきです。切磋琢磨とは自分の修煉を含み「内に向けて探す」こと、他人の修煉に関する問題点を指摘し、あることについての自分の認識、修煉がよくできていない同修へのアドバイスなどが含まれています。切磋琢磨の目的は「親友」を探すことではなく、違った意見を聞き、自分の足りない部分を探し、共に向上することなのです。

 明慧ネットに掲載された交流文章は、一部は自分が内に向けて探し大法に同化した過程の話で、一部は同修が発表した文章に対する自分の見方についてです。時にはある問題について、長い時間をかけ議論したこともありました。例えば「安全と恐怖心」について、大法弟子の家庭、婚姻問題について、「迫害がやって来るという噂」についてでした。これらの議論を通して、同修たちは法理に対する理解をますますはっきりと理解できるようになり、同修たちはこの議論を通して向上することができました。これらの議論は「だれがだれに意見があるのか」、「だれがだれより次元が高いのか」、「だれがだれを責めたのか」ではなく、個人の恩讐や人間関係の問題も存在しませんでした。大法弟子は一体であり、これらは大法弟子が法を持ってすべてのことをはかり、切磋琢磨のとき如何によく行えるかは、大法に同化し、大法の実証につながるのです。

 法理のうえでは、同修の不足を指摘することは師父のご希望であり、大法弟子が法に円融するための責任でもあり、大法弟子の修煉によって生まれた慈悲なのです。「岡目八目」という諺にもあるように、そばで話を聞いている同修は法のうえで判断し、自分の考えを率直に話し、当事者の同修に更に理性的となり、冷静さを取り戻すように進言できます。同時に話を聞いていた同修にも修煉の環境を与えることになります。「内に向けて探す」ことを通して、自分の不足を見つけ、経験と教訓を吸収し、関連のある法理について更なる理解と認識を高めることができます。

 同修のよくない点を見ても指摘しないのは、一方では、「人の感情を損なう」という恐れる心を隠し、取り除こうとしないからであり、他方では同修の不足を早く見つけ補いませんでした。これは双方の修煉にとってプラスにならないと思います。私たちの周りには類似の教訓は少なくありません、なぜいつも事後になって「私はどうしてそのとき彼或は彼女に指摘しなかったのか」と後悔するのでしょうか? これは私たちの修煉状態の現れであり、修煉の厳粛さを理解せず、法をもって物事を判断せず、大法の原則を堅持せず、自分の正念を堅持していないからです。

 私たちが受け入れることができず「外に向けて探す」ということは、問題が起きれば互いに責め合い、愚痴をこぼす、責任逃れなのです。同修の不足ばかりが目に付き、内に向けて探さず、その同修の不足に対し慈悲を持って寛容するのではなく、嫌気がさして、見下していました。それから同修の不足を指摘するときも、自我を実証する心で指摘し、どうしても相手を変えようとし、自分の意見に賛同させようとするのです。これは共産党文化の「闘」の要素を完全に排除していないことの現れであり、落ち着きがなく、話すときの語調は慈悲に欠け、穏やかではないのです。しかも相手を刺激する態度で話し、表向きは婉曲でも、言葉の裏には相手への挑発がこめられています。何かを行うとき意見ややり方が違えば、自我を放下し大局に目を向けるのではなく、自我を強く堅持し、同修の意見を排除するやり方で行っているのです。これが全体の協調ができない根本的な原因で、それは私たちが内に向けて探し修煉によってなくすべき執着心なのです。 

  同修の不足を指摘したがらない同修は、心に与えた忘れられない何らかのショックがあったのかもしれません。或いは自分は本気で同修を助けようとしたのに、同修は受け入れなかったたけでなく、トラブルにまで発展し、または同修が自分の不足を指摘した際の言葉が過激で、受け入れることできなかったのかもしれません。いずれにせよ、これらのすべては人心の現れです。

 396期の『明慧週間』に掲載された「安全と恐怖心」についての喩えは、とても適切だと私は思いました。同修は次のように述べました「私たちがご飯を食べるとき咽喉に痞えたとき、それは食事を食べたから悪いのだ」といえるのでしょうか? 実は取り去るべきことは間違った食べ方なので、食事ではありません」 同じように、善意で同修の良くない点を指摘することは大法の要求に符合しており、指摘の方法はその人の人心の現れで、その人心は私たちが取り除くべきものなのです。大法弟子の間は本当に信頼し合い、慈悲や包容ができるようになり、自我を守る警戒心を放下し、心を開いて交流し、共に法の上で高まることができれば、これこそ私たち全体が成熟に向かう道なのです。

  2008年8月28日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/8/19/206705.html

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