■日本明慧 http://jp.minghui.org/2009/08/28/mh293458.html 



洪大な寛容をもってすべてに対処する

文/中国大陸の大法弟子

(明慧日本)長い間、インターネット、メール、DVDディスク、文書資料を通じて、また、面と向かって真相を伝える方法などで大法を実証しています。現実の生活の中で、顔を知らないインターネットの世界で、大法に対して異なる態度の人に会うことがあります。中には、いろいろな考えを抱くスパイおよび修煉において正しい道からはずれた人もいます。 多くの場合、これらの大法に対して悪印象を持つ人および敵視する態度に対して、最初は相手のためを思って我慢強く話すことができますが、時間が経つにつれて、知らないうちに相手を罵ったり、攻撃したりするなど、良くない方法を取ってしまいます。善を修めるべきだと分かっていますが、一時的には効果が見られるため、善でない行為をなかなか変えられません。

 法を実証する異なる時期および異なる段階で、いろいろな事に出会います。これらの具体的なことにおいて、細かい所の対処の仕方は、未来に残されるため非常に重要です。私達は自分の智慧が乏しいと感じた時、人を攻撃してしまいます。このような時こそ、さらなる向上が必要なのです。なぜ善の方法では効果が見えず、悪の方法こそすぐに効くと感じるのでしょうか? 宇宙の各次元の中に、相生相克の両方の物質があり、この両方の物質が存在する宇宙の中で、善と悪、プラスとマイナスが同時に存在しているからです。一定の宇宙範囲内に我々もこの両方の物質に制約されています。我々は善の方法がよい効果を納められないと思う時、それは我々の修煉が一定の次元に限られておりましたので、真に向上することができて、元の次元にある善と悪を越えたら、その時にもっと大きい慈悲および知恵がでて,そのときならば真にしっかり行うことができます。

 師父はいつも説法の中で、大法弟子は未来の異なる宇宙の神、さらなる高い次元の王者であると私たちを鼓舞されています。この話を聞いて我々はみな嬉しくてたまりませんでした。旧勢力について言うと、邪悪な旧い神々であると我々は思いがちです。しかし、本当にそうでしょうか? 旧勢力はどこにいるのでしょうか? 我々の不純な考え、根本的な放下できない観念こそ旧勢力の表現ではないでしょうか?

 旧宇宙の最後に残された高い次元の生命はみな、大法への試練が迫害であると分かっていながらも、やはり続けて次元の低い旧勢力たちを利用して、大法を迫害しています。なぜならば、このような迫害をして初めて大法弟子を鍛えさせることができるという、旧宇宙の観念に固執しようとしているからです。『転法輪』でも子供の教育に関して言及されていますが、皆さんも理性的に子供を教育するべきで、手を出したり怒鳴ったりしてはならないと知っています。しかし、なぜ多くの人はやはり子供を教育するとき、手を出したり怒鳴ったりするのでしょうか? ひいては、このようなやり方に効果があると感じている人もまだ多くいるのです。私たちは、同修から異なる意見を言われたとき、または同修から異なる見解があったとき、我々はみな、相手に対して善をもって対処すべきであると分かっています。しかし、なぜ責めたり、声高になるのでしょうか? それは、単なる執着と観念によるものではなく、旧宇宙からの根本的な要素に由来するものだからです。実は、修煉中に当たった問題はすべて小さい問題ではありません。我々は師父に遵って法を正しますので、我々の使命は重大です。しっかり法を学んで、よく法を学んで、絶対に旧宇宙の観念を根絶しなければならず、迫害を徹底的に終わらせなければなりません。

 この数年来、中国大陸でブログが流行っていて、たくさんの人が自分のウェブサイトを作っています。大法弟子として、世間のいかなる物をも利用して法に用いることができ、ブログが法を実証する便利な方法と私は悟りました。そして、たくさんのブログに大紀元の記事や脱党のスローガンが転載されていることにも気づきました。これらのページはしばらくしたら封じられますが、新たに貼り付ければ平気です。もちろん、これも法を実証する手段の一つであり、これらのブログの存在は必要で、なおかつ人に直接に忠告を与えています。

 私はブログを作る時に、他のもっと特別な発想から着手して、ブログの文章を選別するときにいろいろ考えています。例えば、一、中国共産党の本質を深く分析することです。中共の邪悪さは、いろいろな方面に現れています。国際社会から普通の庶民生活までもろもろから、その本質を見抜くことができます。中国で起きたいろいろな事件、例えば四川省のオウ安事件、上海の楊佳事件、毒粉ミルク事件、株の暴落事件など、すべて中共を分析する有力な素材です。この身近な事件を生々しく見せることで、中共の本質をはっきりと認識させることができます。二、一定の高い次元まで修煉した人は、その心が純正かつ寛容であり、それぞれ異なる次元の体験を散文、詩、時事評論、音楽作品などを用いて表現すれば、常人にとって珍しくて感動的です。このようにして、修煉の内容がすぐには常人に受け入れられないかもしれませんが、高い次元の作品から発した清浄さ、深遠な知恵、および宇宙の真実などが常人の心を打つことができます。

 1999年から法を実証し、10年も経ちました。よく考えてみたら、この10年は細かくいくつかの段階に分けられます。最初の1年あまりは、家にこもっている状態から法を実証するために出てこられるかどうかの時期でした。それからの数年は全面的に真相を伝えること、ここ数年は法を実証することをもっと専門化し、もっと深く行なうことです。実は、大法弟子に対する要求も次第に高くなり、法を実証することにも初期段階のような何かをやってみるだけではなくなりました。我々はやるとしたら、最善を尽くすべきで、大法弟子の高い境地、高い技法を見せなければなりません。そして法を実証するすべての精巧な作品は法を実証することおよび衆生を済度することに良い効果をおさめなければなりません。

 師父と一緒にいられることは、私達の幸運です。宇宙の法を正す時期にいることができ、同じく私達の幸運です。だから、私達はかならず旧宇宙の迷いの世界から脱け出て、人間の次元の修煉において、自分の悟った事を用いて法を実証し、衆生を済度することをしなければなりません。

 2009年8月28日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/8/2/205607.html

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