■日本明慧 http://jp.minghui.org/2009/08/31/mh010866.html 



私は人間の何に執着しているのか

(明慧日本)とても長い間、私は法を正す進展に追いついていけませんでした。とても精進できず、衆生を救い済度することもある程度やっていましたが、その神聖さを感じ取ることができず、ただ仕事をするだけでした。どうしてこんな状態に陥っているのか、いったい人間の何が私を引っ張って、精進できないようにさせているのでしょうか。

 最初、私も全力を尽くして真相を伝える仕事をしていまし。しかし、時間が経つにつれて気づきましたが、私は自分が好きな仕事を探してやっていましたので、法を実証する仕事がもつべき偉大さと神聖さを現すことができませんでした。このときまた即時に、冷静に法に基づいて認識して、それを突破することができず、かえって難しいから退いてしまいました。そして、さらに精進し、さらに純粋な心で衆生を救い済度すべき時に麻痺し、意気消沈となりました。

 私たちはみな自分の人生の道のりの中、自分の学んだ専門分野と従事する仕事があり、また自分の趣味の領域があり、これらもみな自分の持っている性格、気質などの指図の元で、程度の異なる執着となります。私たちが修煉を始め、真相をはっきり説明しはじめたとき、根気が異なり、法に対する認識も異なり、修煉と法を実証する中、一人ひとりみな異なる程度の、これらの異なる固有のものを持っています。しかし、これらのものは現在、ますます私たちが大法に同化し、衆生を救い済度することに巨大な妨害作用を働いています。

 私個人にとって、私が修煉を始めたとき、宇宙人が私たち人類にもたらした科学システムについてとても嫌がり、5千年の歴史のある伝統文化にとても憧れました。それから法を正す修煉の中、私もこの科学を利用して一部の仕事をし、自分が興味のある仕事をしたがりました。最初の衆生を救い済度するという念は、ますます薄くなっていき、修煉は自分の好きなことを行う中で、ますますうまく行うことになってしまいました。軽く言うとこれは自分の好きなことに対する執着であり、厳しく言うとこれは大法を利用すること、つまりこれも求める心の一種であって、すでに旧勢力の現れとあまり変わりありませんでした。

 興味以外、人の性格と気質、これらは人類の心理学上、1人の人間を区別する固有のもとであります。本当に先天的なものはどのくらいあるのでしょうか。後天的に三界と人類社会で輪廻する中で形成したものは、またどのくらいあるのでしょうか? それらは私たちの思惟方式と大法に符合しない各種の観念をもって、私たちを左右していますが、私たちは意識できません。法を実証することを、私たちはみなやっていますが、本当の慈悲を現すことができず、人を救えません。

 三界は情の中に浸されており、これらはもしかして親の情、男女の情など具体的な情以外、三界の中の至るところに立て込まれているものでしょう。私たちは常に自分の趣味、思惟習慣と性格、気質の中で仕事をしていますが、これはこれらの情に対する執着を満足させているのです。

 あまり不適切なたとえですが、修煉を始めたころはテーブルを拭くのと同じく、表面的にはっきり見える汚れは意識的にきれいに拭きました。しかし、このテーブルを作った木材がすでに腐っている場合、それらをまったく新しい木材に変える、ひいては木材の分子成分を金剛に変えることは、私たち自身では絶対できないことです。しかし、大法は何でもできます。私たちがいくら難しいと思うことであっても、私たちがただ大法に同化しようとする念願と決心さえもっていて、法を多く勉強すれば、法はすべてを変えてくれます。これも師を信じ、法を信じる一つの現れでしょう。

 これは私がもう一つの角度から、人間がどうして人間の根本的な執着、私(し)、情に対して執着しているかをみた場合です。この文章を書き終わるとき、私も文章自体が修煉不足の現れであるかもしれず、本当に大法の要求に従って行えば、すべては私たちが行っている三つのことの中で円満に解決でき、性格を変えるなど法を正す修煉の要求にかなわないにことに執着してはいけないと気づきました。私たちが常に自分が意識してない執着がまだあるのではないか、常に内に向けて探し、さらに念入りで法に同化し、問題が起きたら、自分のことにばかり突っ込まず、さらに自己を放下し、同修に円容し、全体に円容すべきである、というのがこの文章を書いた本意なのです。足りないところについては、同修の慈悲なる叱正を願います。

 2008年8月31日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/8/19/206717.html

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