■日本明慧 http://jp.minghui.org/2009/09/02/mh030233.html 



弁舌の才に執着してはならない

文/中国の大法弟子

(明慧日本)顔を合わせて真相を伝えることができない同修がいます。その原因はすべて恐怖心によるものではなく、自分がうまく説明することができないと思っているため、口を開くことができないのです。このような同修はどちらかというと内向的な人で、普段見知らぬ人に会うと、何を言っていいかわからず、弁舌が巧みな同修を羨んでいます。そして、この執着心に阻止され、突破できないままでいます。

 弁舌の才は、おおむね性格や教養の程度に関係しています。内向的な同修が真相を伝えるとき、はっきりと説明できず、重点を絞る事ができないので、本を暗唱しているようだと聞いたことがあり、当然、効果は良くないのです。

 ある同修は真相を伝えるとき、常人に動揺させられ、考えの筋道が一貫せず、最後に常人の話になってしまい、言いたいことを忘れてしまうのです(私自身にもこの問題があります)。

 しかし、逆に考えると、弁舌がさわやかな人の伝える効果が必ず良いとは限りません。ある同修の感想文の中に、次のように書かれていました。自分は知識人で、口が達者だが、法輪功を修煉して、真相を伝え始めてから、誰も自分と議論をして勝つことができませんでした。しかし、議論して、何も言えなくなった人は真相を受け入れないだけでなく、逆に怒ってしまいました。この同修は私心が強く、勝気で、常人の受け入れ能力を考えず、即座に議論を始め、慈悲心がなかったのです。このように、弁舌の才があれば必ずしっかりと真相を伝えることができるとは限りません。

 『師父と一緒にいた日々』という真相ディスクの中に、初期のころ師父と一緒に修煉していた鐘桂春さんが回想した出来事がありました。彼は修煉し始めたころ、いつも妻とけんかをし、とても悔しい思いをして、師父に苦しみを訴えました。師父は微笑みながら彼の話を聞き終わると、「帰ったら必ず、奥さんに優しくしてください」と一言だけ言われました。これを聞いて、鐘桂春さんはすぐに理解しました。自分が間違っていたことに気付き、なんとも面目なかったということでした。

  師父はこのことについて、一言しか言われませんでした。考えてみてください。もし常人がこのような言葉を言ったら、同修は変わるでしょうか? 当然変わりません。もし、言葉巧みな常人が長談義をして道理を並べたてたら、同じ効果になるでしょうか? このことは常人の心理学者ですら効果が同じだとは認めないと思います。それでは、人を変えたのは一体何だったのでしょうか? それは師父の限りない慈悲だと私は思います。無私無欲の大きな善の場があるからこそ、一切の不正を正し、弟子は根本的に変化することができました。「佛光が普く照らせば、礼儀が圓明となる」(『転法輪』)なのです。

  師父はかつて言われました。「わたしがいつも言っているように、ある人がほかの人のためだけを思って、しかも、自己の目的と認識を少しも抱かなければ、語る言葉は聞く人に涙を流させることでしょう」(『精進要旨・はっきりと目覚めよ』) もしわたしたちがこの境地、すなわち完全な善の心、慈悲、無私無欲、必ず人を救うという心に達することができれば、私たちの空間場の作用のもとで、常人の良くない一面が抑制されます。そうなれば、分かっている一面が作用し、彼らが真相を受け入れないわけはありません。その時になると、一言で人を救うことができるのです。誰があなたの弁舌がさわやかでないといって嫌がるでしょうか?

 真相を伝える効果が良くないのは、弁舌がさわやかでないからではないのです。心情が純粋でないからです。もし過剰に常人の弁舌の才を強調しすぎれば、行動と目的が相反してしまいます。どうすればしっかりと行うことができるでしょうか? それは師父が言葉と行動で教えられ、私たちに最も正しい道を残されました。私たちが師父の言葉に従うことができれば、必ずしっかりと行うことができます。いわゆる弁舌の才に執着している同修がいたら、ともに努力し、常人の表面的な形式を突破し、すべての執着心を捨て、師父に遵って法を正し、世の人々を救い済度し、先史の大願を果たすことができるように願っています。

  2009年9月2日

(中国語:http://search.minghui.org/mh/articles/2009/8/26/207178.html

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