■日本明慧 http://jp.minghui.org/2009/09/06/mh075348.html 



同修の一言で私は自分の執着心を見つけた

(明慧日本)先日、地域の協調のことで相談するため、数人の協調人が集まりました。その協調人の中には、私があまり好きでない同修(以下A同修とする)がいました。私はA同修を軽蔑しており、私自身が修めなければならないところがあるとは思いませんでした。その日突然、ほかの同修から私は「あなたとA同修の間には隔てがある。それを見つければ、みんな全体的によく調和できるようになる」と指摘されました。

  そこで、私は私自身を分析し始め、どんな悪いものがあるかを探りました。その結果、多くの修めなければならないものを捜し出しました。

  一つは、報われることを求める観念です。私は、A同修の結婚の仲人でした。彼の妻は大法弟子であり、賢くて器用でかわいい人です。彼の両親も大法弟子ですから、彼の家は私たちの学法グループの「学法点」になっています。私と彼の家との関係は、親戚以上です。彼が迫害を受けている間に、彼の妻は流産してしまいました。私は当時、あまりお金を持っていないのに、彼の妻に200元を渡しました。彼の妻の辛い様子を見るにしのびなく、彼女を励ましたかったのです。

  A同修が2回目の迫害を受けたとき、私はもう1人の同修と彼が監禁されている教養所に面会に行きました。当時、大法弟子に面会する人は、法輪功修煉者であるかどうかを聞かれました。私は関係筋を通して、聞かれないようにしましたが、教養所の所長が出張だったので面会できませんでした。A同修の母に「病業」があるとき、数回にわたって入院しました。第一に病院へ駆けつけたのは私で、毎日病院にお見舞いに行きました。退院するとき、私はA同修の母を背負って階段を下りました。その後、A同修の母が亡くなったとき、私は彼のお姉さんと一緒に服を着せました。

  しかし、A同修はそこまでしてきた私を、「身内」のようではなく、表面だけの付き合いだと思っているようでした。そのため、私はA同修のことを認めない観念を形成しました。なぜ、そういう観念を形成したかというと、私は、常人のような報いを求める観念を持っていたからです。物質的に報われることはなくても、いっぱい支払った私を尊重してほしいと思っていました。しかし、私のこの考え方は、大法の「修煉者は報いを求めない」要求の境界に、どんなに遠かったことでしょう。

  二つ目は、差別の観念です。私とA同修の関係がうまくいかないもう一つの原因は、私に深く隠れている差別の観念です。常人社会で私は20代から、国レベルの新聞に評論文を発表し始めました。私は住んでいる都市のトップレベルの国家機関に就職して秘書の仕事を任せられ、成績優秀で7回表彰されました。常人社会での私は調子よく、明るい未来が見えました。

  しかし、全国的に法輪功への迫害が始まり、私は大法を実証する活動に参加したため、連行され、解雇されました。しかし、いわゆる「自分の考えていること」を報告すれば、公職を回復するという誘惑に私は妥協しませんでした。そして、家庭と社会からの重い圧力の下で、自分が学んだことを生かし、大法の真相を伝え、大法を実証しています。

  ですから、常人としても修煉者としても、私の方がA同修より優れていると私は思っていました。A同修は普通の会社の普通の職員で、しかも、毎回迫害を受けたとき、毎回妥協しました。とにかく、自分がA同修よりよい修煉者であると思っていました。

  A同修がとても良い状態のある日のことでしたが、私のことについて、「彼より状態がよくない、彼より役に立っていない、果たすべき責任を果たしていない」とA同修は多くのほかの同修の前で話しました。その話を聞いて、私はA同修に対して本当に嫌な気持ちを持ちました。なぜ、私はすぐにそんな気持ちになってしまったでしょうか、「私は常人での地位がA同修より高く、修煉の道で私はA同修より古い弟子で、大法の仕事もA同修より多くやってきた」と私は常に自負心を持っていました。私に対してA同修はそのような言い方の資格を持っていないと思っていたからです。実は、私のこれらの考え方はすべて常人の中での変異した考え方です。私は修煉者として、当然のことながら誰から何を言われても、さらにそれより広い心を持っていなければなりませんでした。

  三つ目は、「色」はよいものだと思っている観念です。私はA同修に対して、嫉妬心がありました。彼のどんなところに嫉妬しているかというと、彼には美しくやさしい大法弟子である妻がいるからです。私は、常人としてA同修よりよい条件を持っていました。私はかつて、妻はきれいで優しくて大法弟子であることが理想の条件でした。しかし、私の妻はきれいではなく、その条件を満たしていませんでした。私が、なぜこんな考え方を形成したのかというと、ずっともっている固有な観念である「色」というものに執着しているからです。「色」はよいものだと思っていて、その考えが根本的に変わっていなかったからです。

  師父は大法弟子に、修煉を高める大切なことは、内に向けて探すことだと教えていただきました。このでき事を通して、私が持っている常人の観念を探しました。「修煉の道で偶然なでき事はなく、一つ一つのでき事は、私たちの修煉に関連している。ただ私たちはこれらの事を軽視してしまった。常人のものを放下しなければ、早く取り除かなければ、修煉の道で精進できなくなる」という私の体験でした。

  今後、私たち修煉者は、さまざまの面で内に向けて探し、いっそうよりよい修煉状態になるようにと願っています。

  2009年9月6日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/8/24/207072.html

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