■日本明慧 http://jp.minghui.org/2009/09/08/mh090288.html 



表の輝きと裏の執着

文/海外の大法弟子

(明慧日本)今まで、ずっと自分には時間に対する執着がないと思っていました。たとえ、大法の仕事で大きな困難に遭い、心性の関を乗り越えるのがとても苦しく、また身体がとても疲れていようと、正法が早く終わるようにとは望みませんでした。学法し、内へ向かって探すことを通じて、今まで関を乗り越えられて来ました。この点で私はとても正しく歩んでいると思っていました。

 しかし、最近になって気付きました。表が鮮やかに輝けば、裏には気付きにくい大きな執着があり、それに何年も気付きませんでした。

 修煉して以来ずっと順調でした。やり方がとてもはっきりとしていて、理性的だと同修たちは言います。多くの同修が、私の考えを比較的に重視しています。私は常人の中でも能力があるほうで、いつも大法の活動に参加するにつれて、みんなが私を協調人に推薦し、佛学会も私に協調人をやってほしいと思っています。私は相次ぎ協調人を担当しました。当時、私は他人のことを言いふらさないし、同修との間にも大きな矛盾が少なく、小さな問題はすぐに解決することができました。これらすべてが、この約十年の間、このようにたくさん称賛を受けてきました。しかし、徐々に称賛されることを享受し始め、これが助長されていることに気付きませんでした。

 数日前、同修は私に「あなたは旧勢力に按配されたのではないかもしれません」と言いました。これを聞いて驚いた私は、急いで「そのようなことを考えないでください。もし、この人は旧勢力に按配されたのではないと思えば、今後、あの人は旧勢力に按配されたのではないか、私も按排されたのではないか、と思うようになるかもしれません。これは精神的な負担になる可能性があります」と言いました。

 その後、私なぜこのように称賛の言葉を聞いたのだろうかと思い始めました。これまで具体的な事でみんなから称賛を受けているうちに、自分を他人より高く見るようになったのではないか? 自己満足な気持ちが多すぎるのではないか? 探してみると驚きました、本当にそうなのです。あることを成し遂げると、無意識に他人に何を言われるかを考えます。法を実証することを行い終えたときは、「見てください、また一つのことを終えました。行っている時はどんなに苦労したことか」などと思っていました。これを口に出しませんが、そのような執着が心の中で潜んでいました。

 こうして、他の執着(歓喜心)が生じました。称賛を受ける過程で、自分が少しずつ前進するのを感じ、一つ一つの道理を悟っていると気付き、非常にうれしく思い、とても満足していました。

 私は、自分に問いかけました。「もし今、正法が終わったら、あなたはどう思いますか?」 最初に考えたのは、「本当に残念です、私が関わっているプロジェクトはまだ始まったばかりです」ということです。この考えにとても驚きました。正法が早く終わることは望んでいませんが、行っているプロジェクトは、衆生を救うために行なっているのでしょうか。それとも、称賛を受けたいという私心のために行なっているのでしょうか。

 私は悟りました。たとえ衆生を救い済度する神聖なことであっても、師父がほかの同修を利用して自分の執着心を気づかせてくださいます。いかなる事に執着するのもすべて人心が執着しているのです。法を実証することに執着するという心は、常人の事に執着することより認識するのが難しく、表の輝きは容易に人を欺くのです。しかし、もし常に法で判断するなら、背後に存在する執着に気づくはずです。

 2009年9月8日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/9/2/207607.html

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