同修のことを陰で言わない 文/陸羽
(明慧日本)私は法輪大法を修煉して早くも十数年が経ちました。しかし、いつも陰で同修の不足を言ってしまう癖がずっとなくなりません。例えば、同修の誰かに顕示心があり、誰かに嫉妬心、闘争心があり、誰かが恐怖心をまだなくしていないなどと話し、興奮します。冷静になった時、陰で同修のことを言っては良くないと思い、言ってから後悔したりしますが、何かあったらやはり調子に乗って口を押さえられないのです。言わずにはいられなくなり、言ってしまってはまた後悔します。このように繰り返していました。
つい最近、私はなぜ自分の口が押さえられないのか、言いたい放題になってしまうのかと考え、内に向けて探して、やっと分かりました。実は、たくさんの執着心、嫉妬心、顕示心、好奇心、色欲の心、闘争心など汚い心があったわけです。例えば、同修の甲さんがよく褒められるのに対して、私は少し焼きもちを焼き、ひそかに嫉妬します。そして、誰かが甲さんの不足に言及した時、私はとても気分がよくて、相づちを打ちます。さらに、自分の親しい同修にまでに言ってしまいます。同修の乙さんは人の意見を受け入れられないタイプで、私は陰で乙さんのことを、乙さんは悟性が悪い、内に向けて探さないと言います。実際は、私がしっかり修めており、内に向けて探していることを言いたいのです。こうして、人を貶して自分を褒めることになります。同修の丙さんは普段、自分が病業に対して如何に上手く対処したかについてよく話します。その後、丙さんが病院に行って看病したことを知って、私は一緒に向上する目的で相手と交流しようと思わず、背後で好奇心を持って他の同修に言います。丙さんの前では何も言わず、知らんふりをします。丁さんは以前、私の恐怖心のことを指摘したことがあります。丁さんが連行された時、私は他の同修との話の中で、まず丁さんの漏れがあることを指摘し、以前言われた「鬱憤」を晴らそうとして、それからいかに丁さんを救出するかを考え始めます。もちろんこのような心を持ちながら、結果が良くなるわけがありません。まだたくさんの事例があるのですが、ここでは挙げません。
陰で同修のことを言うことは私一人の問題ではなく、私のいる地区の他の同修もそうです。時には数人が一緒に切磋するとき、言うことはほとんど他人の問題です。よく考えると、陰で同修のことを言っても、本当にいいことは一つもないのです。それは同修の間に見えない隔てを作ってしまい、地元の同修を一つの全体にまとめることもできなくなります。最近の数年来、この小さい街では相次いで数十人の同修が警察に連行され、不法に懲役の判決を言い渡されました。さらに、同修の間でよく協力し合って救出された人も、わずか数人しかいませんでした。
陰で同修の不足を指摘することは、自分自身の向上に影響を与える上、邪悪に手伝うことにもなり、無意識のうちに正法の進展を妨害しているとも言えるのです。我々はよく、旧勢力の按排を認めないと口にしますが、実際にはいつも同修の執着を掴んで放さず、不平に思い、くどくど言う時にすでに邪悪に迫害の口実を与え、旧勢力の道を歩んでいることになるのです。
問題の深刻さが分かってから、私は自分を咎め、心を修めることを始め、当たったすべてを鏡として自分の内に向けて探すようになりました。良くない念が頭に浮かんだらすぐに掴んで、分析して正念で解体させます。
今は、私の目の中にいる同修は皆良くて、いいところばかりです。以前の自慢、嫉妬、闘争、色欲の心などは徐々に薄くなりました。私は口を修める事をしっかりするという自信があります。これからは早く人を救い、自分が成熟するように努力します。
2009年9月14日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/9/4/207635.html)
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